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2017年3月22日水曜日

戦国時代の丹後 



 中世から戦国時代あたりで丹後ゆかりの人物は、と聞かれると、細川ガラシャ、幽斎、忠興と先ず細川の名があがる。また「天橋立図」を描いた雪舟、静御前、稲富一夢をあげる方、久美浜あたりでは松井康之の名をあげる方もおられる。そして丹後を語るに忘れてはならないのが丹後一色氏である。地元の方はゆかりの伝承もありご存知の方も多い。また細川好きの方も一色五郎、義有といった名をあげる方もおられると思うが、やはり一色氏の知名度は低い。一色氏の活躍が地味であり、また世間に広まるような伝承も少ないことから人気不足になった感は否めない。決定的なのが戦国時代の一色氏に関する史料があまりに無い為、その実態がわからないこと。

 丹後一色氏は一色公深を始祖とし、その孫にあたる一色範光が貞治五年(一三六六)に若狭守護に補任され、その子詮範に続く。明徳の乱で山名氏が没落すると、山名氏の分国であった丹後は一色氏が獲得し、明徳三年(一三九二)詮範の嫡子満範が入国した。以降約一九十年にわたって一色氏の丹後支配が続いた。
 一色氏は丹後守護であったが、丹後の守護関係文書、荘園関係の文書は非常に少なく、戦国時代においては、そうした史料のみならず丹後に関連するあらゆる史料が見当たらない。今谷明先生はこの時期の丹後を「闕史時代」と表現されている。
 永正十六年(一五二九)二月に将軍が一色義清に年始祝儀返礼の内書を遣わした『御内書案』の記録を最後に一色氏に関する史料は途絶え、大永、享禄、天文、弘治、永禄と前後五十年にわたってその動向がわからなくなっている。永禄の史料においても『言継卿記』で守護代延永氏の消息が一行あるのみで、元亀では『日御碕神社文書』に但馬丹後の賊船数百艘が神社や近隣の村で略奪をしたという記録がある程度という有様である。この『日御碕神社文書』にしても、私にはどちらかと言えば尼子再興軍や但馬の動向を探る史料という印象が強い。
 天正あたりになると信長関係の史料で一色氏の動向が垣間見られるが、丹後の状況を知るには情報が乏し過ぎる。細川藤孝が丹後に入り、一色氏は織田に下った後滅亡するが、この辺りの一色氏についても『細川家記』や『一色軍記』といった記録から推測するしかなく、一次史料では確認がとれない。

 上記の一色氏の状況は今谷明先生の「室町期・戦国期の丹後守護と土豪」を主な参考として書いた。現在は『宮津市史 史料編』をはじめとして丹後の史料の整理も進んでいるが、やはり一色氏に関する史料はあまりに少な過ぎる。
 この時期の丹後の状況を知る重要な史料が『丹後国御檀家帳』である。伊勢の御師が記した伊勢講参加者達の名簿であり、丹後一国の規模でまとめられている為、ここから一色氏家臣団の構成など丹後の支配状況を知る貴重な史料とされる。戦国期の一色氏の状況はこの史料に頼るところが大きい。
 丹後一色氏については今谷明先生、河村昭一先生等の研究や『宮津市史』といった自治体史などが参考になる。
 以前、丹後の歴史を勉強されている方とお話をする機会があった。何故ここまで一色氏の記録が残っていないかその理由すら不明だという。当時確実に一色氏と接点のあった寺社ですら文書が見当たらない。調査が進めば、木簡や刻文といった史料から手掛かりを得られるかも知れないので今後の進展に期待している。一色氏を調べるにあたっては、やはり周辺国や中央の史料や動向から探っていくべきだろうと。


 丹後の東隣国の若狭と丹後は度々争っている。若狭武田氏は武田信栄が一色義貫を殺害し、その功績により、将軍足利義教から一色氏の分国であった若狭を与えられたことから始まっているという因縁もあるが、守護代、国人らの動向も絡み合ってその事情は複雑なものとなっている。
 南隣国の丹波は細川氏の分国であるが、細川氏は丹後にも所領を有しており、丹後における武家関係領田積の一割近くが細川氏によって占められていたとみられている。丹波は丹後攻めの橋頭保のような役割を果たしており、細川氏の丹後攻めや織田の丹後攻めなど、度々丹波から丹後への侵攻が行われている。
 西の隣国である但馬には山名氏があった。一色氏と山名氏の間には婚姻関係が認められる。山名氏、但馬側の史料からみても丹後との争乱はあっても深刻なものではなく、比較的良好な関係が続いていたと思われる。但馬側にとってもこの時期、隣国丹後に関する史料は殆ど見られない。


 丹後は史料に制約があるだけで、誰もいなかった、何もなかったという訳では無い。丹後国内には多くの中世城館跡が見られ、その数は約五百八十箇所以上にのぼるとみられる。私も丹後の山城を訪れることがあるが、他所と同様に堀切、虎口、土塁、横矢懸りの工夫といった技巧が凝らされた見応えのある山城があり、村人や地侍クラスの小規模なものから守護代クラスの大規模な山城もみられ、戦乱の時代の丹後で人々が生きてきた証を見ることが出来る。


 今回は戦国時代の丹後に関する史料が少ないことをテーマにしたが、とりとめのない記事になってしまい、また勉強不足の為、挙げ損なった重要な史料や課題があると思う。マイナーな一色氏であるが、ネット上では多くの方が一色氏に関する記事を熱心に書かれており非常に参考になっている。真贋の見極めも必要ながら、手掛かりが多いことは有りがたい。個人的には山名氏についてもっと深く知りたいと思い、周辺の歴史も併せて考える必要があることから一色氏について調べたいと考えた次第です。
 最期に、生意気な事を書きましたが、素人の戯言、間違いや思い込みもあると思います。どうかご容赦願いますとともに、ご指摘、参考になる資料などがありましたらご教授をお願いします。



参考 『守護領国支配機構の研究』、『宮津市史 通史編 上巻』、『宮津市史 史料編 第一巻』、『南北朝・室町期一色氏の権力構造』、『出雲尼子史料集』、『京都府中世城館跡調査報告書 第一冊─丹後編─』、『図説 京丹後市の歴史』他

2017年3月10日金曜日

山名赤松合戦異聞


赤松政則は嘉吉に失われた領国を回復した赤松中興の祖である。
応仁・文明の乱をはじめ、多くの戦を経験した武人である一方、猿楽、和歌、蹴鞠、絵画などの諸芸にも通じた文化人でもあり、特に刀剣には強い興味を示し、自ら刀匠として作刀しているほどである。しかし政則を語るにはさらにもう一つ言葉が必要になってくる。
彼は美形であったのだ。
「赤松次郎法師、幼少より其心勇敢にして、其気大胆なり。剰へ器量礼容世人にすぐれ、寛正、文正の比、世に隠れなき美少年なり…」(『赤松盛衰記』)
この次郎法師とは政則のこと。六道珍皇寺にある政則の肖像画を見ると、デフォルメされた部分はあるが細面に切れ長の目、二重、筋の通った鼻と美形であったという政則を想像させる片鱗がある。
寛正六年十二月二十六日(1465)十歳の次郎法師が元服し義政から偏諱を与えられて政則と称するようになった時の様子が当時の日記に記録されている。

「赤松次郎元服出仕献御太刀御馬三十足。賜名乗仍又献太刀也。雖云少年、其威儀粛然、其起居進退可観。仍殿中人皆互相慶賀、愚又似有寵光也」 (『蔭凉軒日録』寛正六年十二月二十六日条)
まだ幼い政則は居並ぶ歴々の前でも動じることも無く、堂々とした立ち振る舞いであったと季瓊真蘂は記している。
今回の話はその多くを『蔭凉軒日録』に頼っており、特に断りの無い限り史料の出典は『蔭凉軒日録』とする。関係している記事は季瓊真蘂と亀泉集証が担当しているが、両者とも赤松氏に縁を持つ出自であることから、赤松氏に対しては特に好意的である点にも注意しなければならない。対して山名氏にはいささか冷淡な記述が目立つ。
政則は山名氏を宿敵として山名宗全、政豊等と激しい戦いを繰り広げている。今回はそんな政則と山名氏との違う形での戦いを取り上げてみたい。
宗全の跡を継いだ山名政豊。京都での戦いが終結し、領国但馬に戻った政豊はその後も播磨に攻め込むなど政則との戦いを続けている。しかし政豊の播磨攻めは政則に敗れて失敗に終わる。但馬に戻った政豊の求心力は低下し、家臣等は政豊に代わってその息俊豊を擁立しようとして、父子の泥沼の戦いが繰り広げられていく。
政豊には四男二女の子女がいた。長男の常豊は幼くして義尚に対面するなど後継を期待されていたが二十歳で早世している。俊豊は政豊との確執により山名惣領家を継ぐことは無かった。三男の致豊が政豊の跡を継いだが、家臣を抑えることが出来ずに若くして弟の誠豊に当主の座を譲り隠居することになる。『村岡山名家譜』によると女子の一人は一色上野介義嗣の室となったという。
政豊以降の山名の歴史を簡単に説明したが、話は少し遡り延徳三年(1491)将軍足利義材が近江の六角高頼征伐の軍を起こした頃に戻る。
義材の六角征伐の呼びかけにより諸大名らが次々と上洛していく中、山名政豊はその息、俊豊を名代として出陣させている。播磨での大敗の傷が癒えたかどうかといった時分である。政豊は先の義尚の近江出陣にも俊豊を名代として派遣している。八月十八日に上洛した俊豊は梅津長福寺に着いた。その兵は二千人、騎馬六十人であった。二十三日に出仕した俊豊。
「山名又次郎殿出仕、伴衆垣屋新五郎、太田垣、八木、田結庄、垣屋駿河守、村上。六騎、徒衆七十人許、或云百人許、因幡守護親子同参」 (二十三日条)
俊豊には垣屋両家、太田垣、八木、田結庄といわゆる山名四天王と呼ばれた家臣等と因幡守護山名豊時、豊重等が付き添っていた他ことが判る。
ここで亀泉集証のケチが入る。
「今日亦武衛御出仕。伴織田五郎、島田、飯尾、山下、織田與十郎、五騎有之、武衛衆壮麗勝於山名衆」 (二十三日条)
武衛とは斯波義寛のこと。同日出仕した斯波一行を見た亀泉集証は、先に見た俊豊達と比べて壮麗さで勝っていたとの評。厳しい。しかし辛口評価は更に続く。
義材の出陣に加わった諸大名には当然、赤松政則もいる。政則の軍は八月二十七日の義材の京都出立の時に、まだ山崎にあり遅れていた。翌二十八日になって政則軍は上洛した。
「赤松公入洛洛人挙群見之」 (二十八日条)
政則の上洛に際し都の人々がこぞってその行列を見物に出たのだという。都の人々は前日の将軍一行も見物しているが、京都を灰燼に帰した先の大乱から然程年も立たぬ内にもう軍勢を見て楽しむまでになっている。本当に逞しい。都に入った政則は亀泉集証と面会している。
「諸家兵優劣評之」 (二十八日条)
亀泉集証は都を出立する諸大名等の行列を見てその優劣の評価をしており、山名俊豊の軍勢をみた感想でこう記している。
「山名又次郎公諸兵皆不壮麗騎従之衆悉少弱者也、鹽冶周防守一人老兵也」(二十八日条)
俊豊の兵はみすぼらしく、騎上の武者も塩谷周防以外は若輩者ばかりであったというのだ。
この件については山名宗全与党であった六角高頼征伐に乗り気でない山名氏が形だけ合わせるために名代として若者ばかりを送り込んだという説もある。
先の播磨攻めの失敗で、政豊に従った国人達の受けた損害は大きく、特に垣屋氏は主だった一族を失っており、政豊自身も更迭問題があったばかりと、国内から目が離せなかったこともその要因にあると思われる。

「同族伯州太守六郎公、騎兵者十三員、標牌五百員、大壮麗也云々」 (二十八日条)
山名一族である伯耆守護山名尚之の軍勢は大変壮麗であったと評価されている。どうやら亀泉集証等は軍勢を実力や武装ではなく、その衣装、飾り具合など見た目の華やかさなどにより評価をしていたようだ。
都の人々も寺衆等も義材の出陣にパレードを見るようにお祭りとして楽しんでいたのだ。
いよいよ赤松政則の行である。
「凡一千二百四十五荷、此内馬駄多々有之、赤松公来、識與不識皆視其面骨、其服威雄、従後者騎兵五十五員。歩卒二千人許乎。馬上者皆不持弓矢、不被甲冑、只帯大刀耳。不亦一快乎」(二十八日条)
赤松は約三千人の兵による行列であった、政則はその行列の中ほどに居たことになる。注目を集めた政則の姿は、威風堂々たるものであった。赤松の騎乗の者達は皆武装をしていなかったという。

諸将の近江在陣も二ヵ月も経ったある日、亀泉集証は初めて山名俊豊を目にすることとなった。これまでは遠目に見るだけでその容貌などは判らないままであったのだ。

俊豊を見た感想は如何に。





「於湖濱山名又次郎殿出仕見之予始其面太醜面也…」 (十一月二十四日条)
この頃の俊豊は二十歳そこそこの年齢であったと思われるが、いくら赤松贔屓、山名に冷淡な見方とはいえ、これは余りな言いよう。酷い…
思えば宗全も赤ら顔の入道と呼ばれている。美醜では赤松氏に分があるのか。
赤松家にもその容貌を鬼瓦と評された洞松院がいるが…

文明十八年正月(1486)の記事。ここに注目すべき記述がある。
「昨日興希文来曰、山名金吾息宗傳。字芳心。有試筆詩。彩霞春加一様花。和之可也。蓋南禅栖眞院美少年也。」 (正月十四日条)
この山名金吾とは政豊のこと。南禅寺栖眞院は山名常熈開基の塔頭である。そこで修行をする十代半ばの若き宗傳芳心は政豊の息である。
その芳心は美少年と評されていた。
この芳心こそが俊豊の弟にあたる後の山名致豊である。
山名の起死回生の一手。
そしてこの致豊の子が山名祐豊、豊定である。豊定の子、致豊の孫にあたる山名豊国は『因幡民談記』に器量の世に優れた武将と評されている。その後山名を継いだ者達は美形の血筋であったといえるかも知れない。
山名氏の肖像画は常熈と豊国しか確認出来ないのが残念だ。

参考『蔭凉軒日録 巻二』、『蔭凉軒日録 巻四』、『但馬の中世史』、『赤松盛衰記-研究と資料-』、『禅文化研究所紀要 26号』、『山名豊国』、『山崎城史料調査報告書』他

武将達の言い分


戦国の世の人々は何を思っていたか気になるところ。
毛利関連の文書などからは隆元や元就、経家等の心情をうかがうことが出来るが、他の武将達はどうであったか。
史料を眺めていてふと目についたものも幾つかある。史料上の文言をそのまま字面通り受け取るのはどうかとも思うが、武将達の公の見解として簡単にみていきたい。

天正六年(1578)二月、別所長治が織田から離反して毛利についた。
昨年の大河ドラマでも取り扱われた出来事であるが、織田と毛利 が播磨を挟んで睨みあいを続けていた頃のもの。
毛利の誘いと期待、織田の勢いと逆らう者には容赦の無い姿勢。播磨の武将達ははどちらにつくべきか悩んだ。
天正六年三月二十二日付で小寺官兵衛に宛てた織田信長朱印状。
「今度別所小三郎、対羽柴筑前守、号存分有之、敵同意候
断、言語道断之次第候、然而無二令馳走之由、尤以神妙
候、別所小三郎急度可加成敗之条」
(「黒田家文書」)
信長は毛利に寝返った別所長治を「言語道断」となじり「急度可加成敗」と言っている。寝返りを多く出した信長であるが相手が信長に歯向かった時の文言。

この五日後に信長は秀吉に書状で上杉謙信が死去した事を伝えている。

謙信が「相果」たのは「珍事」な事だという。
毛利を相手にしている秀吉にとっても、毛利と連絡をとりあっている謙信の動向は気になるところだっただろう。
この前年に信長が伊達輝宗に出した書状には謙信の事を 「就謙信悪逆、急度可加追伐候」(「伊達家文書」)と非難している。
信長にとっての敵は征伐すべき悪であった。
この後の別所氏の三木城をめぐる戦いの経過は周知の通り。

大軍を動かす為には大義名分が必要であったが、戦いはより大規模になりより凄惨になっていく。
部下の中には躊躇い、罪悪感に悩む者もいた。

「去十六日書状、今日廿、到来、委細被見候、宇喜多、南条書状同前候」
「鳥取面事、先度桑名具申遣候、弥丈夫令覚悟之由、
尤以可然候、彼城中下々、日々及餓死候旨、可為実儀
候、最前表裏仕候族天罰候間、彼是可打果之段勿論候、
弥堅可申付事専一候」
(「沢田家文書」)
天正九年(1581)八月二十日付で信長から鳥取にいる秀吉に宛てた書状。
吉川経家等が籠った鳥取城の兵糧攻めが開始されて三カ月が経った頃のもので、既に雁金城は落ちて丸山城と鳥取城の連絡も断たれた状況であった。
これによると鳥取にいる秀吉と京の信長との連絡にかかった日数は四日とある。
信長が鳥取城で餓死者が出ているとの報告を受けて知っていたことも判る。
この十六日付の秀吉の文書が残っているのかわからないが、信長は秀吉の文面から現場の罪悪感や士気の低下を感じ取ったのかも知れない。
信長は秀吉等を叱咤する。
これは裏切り者達に対する「天罰」であり彼らを討果たすのは当然であると。
この後、鳥取城内では更に凄惨を極める光景がみられることとなる。

信長は相手を悪しざまに罵っているが、相手側はどうであったか。
本願寺顕如が石山合戦の最中、天正四年(1576)五月に各地の門徒に送った書状。
「今度信長表裏之趣、紙面に不及申顕候、且者覚悟之刻候、
しかれハ、当時すてに籠城之儀、みなゝ可有推量候。
此度の懇志、別而有難事候、当寺破滅之時ハ、一流も断
絶候へき事、あさましく候、歎入計候、よくゝ思案を
めくらされ候へく候、聖人への報謝と申へきハ、此時た
るへく覚候
…略…
老少不定の人界なれハ、無油断、法儀之たしな
ミ、肝要たるへく候、不信にて、命終候ハヽ、永世後悔
ハ、際限あるましく候、能々心得られ候へく候、委細端
坊可申候、穴賢」
(「明蓮寺文書」)
「娑婆ハ一旦の苦ミ、未来ハ永生の
楽果なれハ、いそき阿弥陀如来をふかく頼、信心決有て、
今度の報土往生の素懐をとけ候と相成、其上ハ、仏恩報謝
のため、万事取持いたされ候事肝要に候」
(「常蓮寺文書」)
前の文書は播磨の英賀門徒等に宛てたもの、後の文書は加賀、越中、能登といった 北陸の門徒達に加勢を促したもの。
容赦の無い織田軍に対抗する為の力は信心であった。
「当寺破滅之時は一流も断絶」
「聖人への報謝」
「永世後悔は際限あるましく」
「娑婆は一旦の苦しみ、未来は永生の楽果」
「仏恩報謝」
と危機感をあおり、信仰心の欠如に対する威し、そして信長との戦いが仏恩への「報謝」であると説いている。
石山本願寺には毎年各地の門徒達から大量の贈答を受けており、播磨の門徒から毎年鯛百匹が送られて いたという記録もある。また顕如が紀州門徒に宛てた書状でも英賀、高砂から石山本願寺への海上交通の維持について説いている。
この時期には門徒や軍需物資も送られていたが、織田は新関を置いてこうした人や物の流れを阻んでいく。
やがて石山本願寺を支援していた周囲の勢力も制圧されていき、天正八年(1580)正月には本願寺は「御兵粮玉薬已下万御払底」の状況に陥るまでになっていた。
下間頼廉は「不限一紙半銭」でも良いから支援が欲しいと門徒達に訴えている。もはや石山本願寺にはこれ以上信長に抵抗する余力は残っていなかった。
この年に顕如と信長の間に講和が成り、顕如は石山本願寺を退去した。

こちらは自己弁護に近いもの。
慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に至る前の石田三成と真田昌幸の書状の遣り取りの中。

「先書ニも申候丹後之儀、一國平均ニ申付候、幽斎儀者一命をたすけ、高野之住居分ニ相済申候 長岡越中妻
子ハ人質ニ可召置之由申候処、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、大坂之家ニ 火をかけ相果候事」
遠く上田の地にいる昌幸は随分早いタイミングで丹後の情勢や大坂の細かな情勢を知っていた。 三成はガラシャを死なせてしまった弁明として、留守居の者が命令を聞き間違えて殺してしまったと言っている。 幽斎についても一命を助けたと言っている点も含めて言い訳めいた印象も受ける。三成ごめんなさい…
ガラシャの死をめぐる見解についても考えさせられる文言。

最期は少し時間を遡った永禄十二年(1569)の文書。

「今度毛利乱入国中、既当家断絶之處、従但 馬国凌遠海、至于島根忠山切渡、数剋之構勝負、亡大敵、 雪会稽恥畢、然国家鎮安泰也」
(「日御碕神社文書」)
尼子再興軍が出雲に上陸した頃、勝久が日御崎神社に社領を寄進した時のもの。 あわせて山中鹿介、立原久綱等の連署奉書もある。
「毛利一族之者共、就当国乱入、当家断絶之以来三四年、然今度佐々木勝久、為散其 欝胸、従丹州以舟数百艘至島祢着岸之刻、防戦雖及数度、敵無得利乍敗北、国家静謐畢」
毛利により尼子家は断絶してしまったが、鹿介達の尽力により再び出雲の地に帰ってくることが出来た。
尼子再興の希望を叶えてくれた勝久と合戦での勝利に対して「然今度佐々木勝久 為散其欝胸」 は正直な感想だと思う。
この言葉に尼子再興を夢見る武将達のこれまでの苦労と勝久への期待、再興への熱い思いを感じる。
月山富田城に掲げられた四つ目結紋の旗が目に浮かぶ。
鹿介、勝久主従はやっぱり好きだな。
大勢の人間を動かすためには大義名分が必要だが、立場が違えばその言い分も随分違う。これらの文言は立場上のもので実際の考えとは違うだろうが、彼等の本音の成分も少しは混ざっているように思える。
軍記物のようにはっきり熱く語ってはくれないのだ。

平和のかけ橋


文明六年(1474)四月、応仁の乱の只中のこと。京の街に橋がかけられた。
この橋は特別な意味を持っていた。

京を焼け野原にした大乱ももう七年以上続き、
前年の文明五年三月に山名宗全が死去、続く五月に細川勝元も死去し、両軍とも当初の二人の大将を既に失っている。厭戦の気運が広がり、講和の話が持ち上がった。
講和の話は以前にもあったが実現していない。ここにきてようやく宗全の嫡孫政豊と、勝元の嫡子聡明丸(政元)との間で和睦が成立したのである。
この橋はその証としてかけられたもので、橋の一方はは西軍の陣地、もう一方は東軍の陣地に通じていた。

「已去夕會云々、仍懸橋自他人々往反云々、凡大慶歟」 『親長卿記』文明六年四月三日条
「山名細川和輿對面、天下亂且無爲」 『大乗院日記目録』文明六年四月三日条
この夜、垣屋、太田垣、田公、佐々木、塩冶ら山名被官の五人が馬を引かせて細川邸に礼を述べに出向き、もう一方の細川方からも安富以下五人が馬を引いて山名邸に礼を述べに出向いた。
更に聡明丸母子が山名邸に出向き、酒宴も開かれた。これは凄い。

この和睦は年始頃から東西大名間で持ちあがり、山名、細川被官達の申し合わせと、政豊の譲歩により実現に漕ぎつけたものである
翌日、政豊は和睦成立の旨を畠山、土岐、大内、一色など諸大名に使いを出して報せている。

四日には早くも東軍側から北野天満宮に、山名陣からも誓願寺に参詣する人々があらわれた。
北野天満宮は乱以降に路が途絶え、人々は長く参詣出来ずにいたが、六日にようやく北野天満宮への道が通じ、自由な往来が可能となった。
また西軍方にある下京の商人達が東軍陣地にやってきて商売をするなど、太平の訪れを思わせる風景が見られるようになった。目出たい。

ところで道が途絶えた状況とは一体どのようなものであったのか。
当時の京の市街北部には南北に堀川、小川が流れており、これらの川が東西両陣の境界となっていた。はたしてこの川は両軍を隔てる程の役割を持っていたのか。

堀川は平安京造営時に計画整備された川の一つで、自然に流れていた川を改修して運河とし、北山の木材などの物資の運輸や、貴族庭園への引水の水源として利用されてきた。
『応仁記』では戦闘の際、堀川に架かる一条戻橋や高岸から兵達が転落して多数の死傷者が出たとある。
堀川は深さと幅、ある程度の水深をもった、まさに堀の役割を持つ川であった。

さらに両軍の間の方々の要害、道路は堀で切られて両陣を分断していた。

「自今日一條大路両陣之間堀溝、口二丈計、深一丈云々」 『皇年代私記』

一条大路には幅約六メートル、深さ約三メートルもの堀切が施されていたのだ。驚く。
京市街戦で道路を掘り切る戦術は明徳の乱時にも見られる。
又地方の国境の峠が掘で切られていたという話もある。

この他にも両軍は土塁、堀、藪で陣を守り、高楼に見張りを立てるなど防備を堅めていた。
想像以上に京は立体的な戦場となっていたようだ。

敵陣内に物資を確保しに出向く人夫達もいたが、見つかって殺される者も多かった。
両軍の間は河川、堀、通行止め、陣地により隔てられ、初期のような奇襲、突撃戦術も取りにくくなり 戦況は膠着状態にあった。
このような状況では大手を振って物見遊山に出掛けることなどは殆ど出来ない。和睦の橋が架けられたことは「大慶」「珍重」な出来事であったのだ。

肝心の橋の場所ははっきりしない。
山名邸、細川邸、誓願寺、北野天満宮といった語句から、橋は現在の今出川通りから上御霊前通りの間、山名邸から細川邸近隣の堀川にかけられたものと考えられる。しかも互いの使者が馬と従者を連れて渡れる程の造りであった。
こうして東西両軍の戦闘が停止された。

ただこの和睦は完全な戦闘終結では無く、京での戦闘はまだ数年続くことになる。
和睦が成ったとはいえ諸大名達は陣を引く気配も無く、その動向はいまだ定まらなかった。
和睦に反対した者達もいた。
赤松政則もその一人。

「赤松次郎等用心以他云々、不得其意事也」 『大乗院寺社雑事記』

「赤松不同心云々」 『尋尊大僧正記』

政則と政豊は領国に帰った後、更に激しい戦いを続けていく・・・

一蝶の話 


先日古本店で図録『元禄繚乱展』を購入した。
平成十一年に放送された大河ドラマ「元禄繚乱」にちなんで開催された企画展の図録。
内容は武家、町人文化、赤穂事件、忠臣蔵をテーマに資料、解説ともなかなかの充実ぶり、 展示を是非見たかったと思わせてくれる。

その中でも目にとまるのは「布晒舞図」という布をまわす舞手の躍動感のある絵。
大河ドラマ元禄繚乱のOPのラストでも登場して華やかさを演出しているが、今回はこの絵の作者の英一蝶の話。

英一蝶は江戸中期に活躍した画人。
承応元年(1652)京で誕生、幼名猪三郎後に次右衛門、助之進、剃髪して朝湖となる。
父の多賀白庵は伊勢亀山藩石川氏の主治医。十五歳又は八歳の頃江戸に下り、石川候の勧めで狩野安信に入門、狩野派の画風を学んだが、後に破門となる。
書を佐玄竜に学び、俳諧を芭蕉に学び、其角、嵐雪等と交りが深かく、其角とは生涯の友人であった。
翠蓑翁、牛丸、暁雲堂、旧草堂、一蜂閑人、和央などの諸号を持つ。
二代高嵩谷が晩年の一蝶の肖像画を残している。英一舟が晩年の一蝶を描いたものの模写である。
片膝を立て、大きな鼻と耳、深い皺に上目づかいの目と伸びた眉。
同時代に生きた人々は一蝶の姿をみて
「身の丈大きくあばたづら」
「鼻の先あかくありて、大なる鼻」
と言い伝えている。

賛に書かれている辞世の句
「まぎらはす浮世の業の色どりもありとや月のうすゞみの雲」
波乱の人生を生きた人の姿である。

幕臣小宮山龍溪は一蝶の人となりをこう記す。
「色白く、眼大きくすさまじく、言語は静かな生まれ付き、絵は名人也、生得欲深くして機嫌取の上手也」
『一蝶流謫考』
一蝶が学んだ狩野安信は『画道要訣』という秘伝画論書で狩野派の論理を伝えている。
「夫、画有質、有楽。質と云は、生れ付て器用なる天性の質有、学と云は習学で其道を勤て其術を得たるをいへり」

画技には天性のものである「質画」と修練して身につける「学画」があるという。
「我家に云伝は天質の器用を以って書き出すのを尊ばず」
天性のものである質画はその画家一代限りで終わる性質のものであり狩野派では尊重されなかった。
「学之至るはくるしみて伝ふれども、万代不易の道備て、子孫是を受て 失わず。書伝へ、言伝へて、後世に其道を残す。 画は法を始めとして、妙極を次とす」
狩野派のあり方は古典、模本をひたすら写し真似て、画技を磨くことにあった。
一蝶の個性的な画の基本にはこうし朝湖時代の蓄積がある。
この後岩佐又兵衛、菱川師宣らを意識し浮世絵にも関心を高めていく。
二十代、三十代の一蝶は俳諧、浮世絵と遊興の世界にいた。
楽しい世界が好きだった。
一蝶は狩野派の格調高い絵画を学びながらも、風俗画、戯画、人々の日常を描いた絵画を多く残している。
傀儡師、猿曳、一人相撲など市中に見られた娯楽。遊楽、華やかな都市風俗、吉原を描いた作品。
盲人達もユーモラスに描く。
「盲人騎乗図」は盲人が乗った馬が暴れて傘が舞い、主従が困惑する様子を。
「群盲撫象図」は盲人達が象を触りまくって象が迷惑している図。
座頭が垣の隙間から中を覗いている図、犬が吼えたてているのもおかしい。
「寒山拾得図」は居眠りしている拾得の顔に落書きしようとしている寒山の姿。
一蝶の描く風俗画や戯画には下品さはない。
一蝶(この頃は朝湖)は仏師民部、村田半兵衛ら仲間と頻繁に吉原など悪所通いをし、大名旗本に取り入って金銀をばらまかせている。
彼等は太鼓持ちとしても名が通っていた。
「大尽舞」の歌詞に
「さてその次の大尽は奈良茂の君でとどめたり、略、付総ふたいこはたれたれぞ、一蝶民部にかくてふや」 
『大尽舞考証』※かくてふ(角蝶は村田半兵衛)
一蝶の吉原話で「女達磨」というものがある。

吉原の妓楼、近江屋の拘えの半太夫は十年勤めてようやく苦界を脱して良家の夫人となれたという。
この話を聞いた一蝶は 「すべて女郎の身の上は、四季折ごとに見世へ出て、昼夜面壁同前たり、達磨は九年、我には苦界十年なり、達磨のうは手なり」
『当世武野俗談』
達磨大師の面壁九年の故事よりも凄いと戯れに半身美人の達磨絵を描き、人々は一蝶の着想の妙と画才に驚いた。
先の一蝶を評した龍溪は仏師民部、村田半兵衛らについても評している。

「此民部は、色黒にて菊石面顔也、頬骨高く、痩男也し、中々咄相手におもしろく、愛敬坊主也」

「村田半兵衛は美男也、月見の歌の文句にも、色の村田の中将の、と業平に比したる程の美男也、茶の湯、蹴鞠をよくして、風流のもの也、日頃の自慢は、吉原中の女郎何万人か在らんが、そのものゝ年、又色客の名、其他吉原中の事、何にてものこらず覚えてをる、といひし」

おだて上手、絵上手、声も良く小唄をよくうたったという朝湖、話上手で愛敬のある民部、色男で賢い風流人の半兵衛。
この三人がチームを組んで 御大尽を悪所に誘いだし金銀を使わせて楽しむ。最強だ。

誘い出された放蕩した殿様の御歴々井伊直朝、本庄資俊、六角広治。
多賀朝湖 四十七歳。 越えてはならない一線を踏み越えてしまった。


英一蝶達が遠島になった理由ははっきりしない。
先の本庄資俊、六角広治等は桂昌院の縁筋であった、そのような人々を花街に誘い出して大金を使わせるという、将軍家から遠からぬ醜聞。
何事も無く終わるはずはない。
これが配流の有力な原因といわれるが、他には「朝妻舟図」「百人女﨟」といった一蝶の作品の中で将軍綱吉や側室おでんの方を 風刺した罪や、幕府が禁じていた不受布施法華に帰依した罪など諸説ある。
表向きは生類憐みの令に抵触した罪とされたという。

藤岡屋由蔵が残した『藤岡屋日記』の中に一蝶に関する資料がある。
元禄之頃、御船手逸見八左衛門之内書付あり、左之通り。              
                 呉服町壱丁目新道 勘左衛門店   
   北條安房守掛り    多賀 朝湖 四十二歳
是は御詮議之義有之候二付安房守宅ヨリ揚屋入
右之者、元禄十一年寅年十二月二日三宅島ヘ流罪、御船手逸見八左衛門へ渡ス
            本石町四丁目、茂左衛門店
  宝永六、九月大赦依而帰国       仏師民部
            本銀町二丁目、治郎左衛門店
                     村田半兵衛
元禄六年酉八月十五日入。  
   是ハ朝湖一件之者ニ而御詮議有之候間、安房守方より揚屋ニ入。
右之者共、元禄十一年寅十二月二日、八丈島へ流罪、御船手逸見八左衛門へ渡ス。                                            
一蝶達の遠島の期間や投獄されていた期間が様々異なって書かれているのは、元禄六年に入牢した 記録がある為でもある。この時は数カ月程で釈放されている。
元禄十一年、一蝶こと多賀朝湖の伊豆三宅島への遠流が決定した。
時期は定かではないが狩野派からの破門も言い渡されている。
「公事方御定書」によると流罪は「遠島」とある。
主な罪状は隠鉄砲、不受布施僧、隠れ切支丹、殺人、 放火、悪質な窃盗、身内への救助義務過怠など、遠島の罪は死罪に次ぐか準じるものであった。

流罪は無期が原則。
遠島の言い渡しを受けた者は、追放刑に準じた手続きが進められ、小伝馬牢屋敷の遠島部屋に入れられ、出帆までここれ待つ。
ある程度人数が溜まるまで在牢して待つことになり、一年以上待つ場合も少なくなかったという。先の三人の日付が同じ理由にはこうした事情もある。
配流地が決められる「島割り」が流人達に知らされるのは出帆前日。
朝湖は三宅島、民部と半兵衛は八丈島と決まった。
伊豆七島とは大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島のことをいう。
伊豆流刑は当初は大島までであったが、宇喜多秀家が八丈島に送られて以降、大島以遠への島流が進められていった。

遠島が決まった者には身寄りの者から制限付きではあるが届物が許されたが、刃物、書物、火道具などは許され無かった。 届物が無いような者には金銭、薬などが給与された。
こうした具合であったので当然画材など持って行きようがない、しかも都市風俗を好んだ朝湖にとって三宅島は描くべき対象もない孤島。
更に遠島になった者には、船中での病死、島での餓死、島抜失敗による死罪、銃殺など悲惨な最期を遂げた者もいる。
想像していた遠島より随分と過酷な刑であったようだ。
どうなる朝湖。




・・・三年余後。

朝湖は島民を相手に米や酒を売る小店の主をしていた。
そして三宅島、八丈島、御蔵島、新島など伊豆諸島の島民の注文に応じて仏画、七福神図、絵馬等をを描いて暮らしていた。

新島の有力者梅田藤右衛門は配流中の朝湖のパトロンであった。
藤右衛門宿所が大火事により類焼した時などは 火事見舞として七福神図を描き贈っている。又七という仲介人も得た。
作品の代金ですぐに米を調達してそれを頂きたいなどの書簡も残っている。食糧事情は切実であった。
不便な生活ではあるが技術を持っていた朝湖は何とか暮らしていたようだ。
また水汲女を現地妻として一子をもうけたとも伝わる。

このころの苦労を示すものに、朝湖と其角のやりとりがある。
 初松魚カラシガナクテ涙カナ  一蝶
 其カラシキイテ涙ノ秋魚カナ  其角
当時鰹は皮をひかない状態で刺身にして食べたという、その時の調味料が辛子醤油。鰹のタタキを教えてあげたかった。
一蝶には「松魚、赤貝、螺、蛤」という松魚を描いた作品もある。『群蝶画英』
「布晒舞図」「四季日待図巻」「吉原風俗図巻」「見立四睡図」といった名作は三宅島時代に描かれたものとされる。
画材のとぼしい流島生活では絵を描くにも苦労が絶えない。
この時期に描かれた作品には水墨画、略画が多く、色付きの作品も薄い色彩で描かれているという。厳しい環境にあった 朝湖の苦労がしのばれる。
遠い江戸の生活を懐かしんで吉原や遊楽、都市風俗を描いたとされるが、これ程の作品はは記憶だけで描けるもではない。 吉原の景色も行き交う人たちも、傍らにある行燈や壺、植物も繰り返し修練して身体に沁みつけた 朝湖の人生の証である。

ところで三宅島時代に朝湖が描いた作品は島一蝶と呼ばれるが、伊豆の島々にあった作品は殆どが、江戸期に商人達に買いあさられ持ち去られてしまっている。
元禄十五年(1703)十二月十四日 赤穂四十七士の吉良邸討ち入り。

宝永六年(1709年)一月 五代将軍綱吉死去。
この年、将軍代替の大赦があり、生類憐みの令に関連した罪人達にも赦免された。朝湖、民部、半兵衛達もこの大赦の恩恵を受けることが出来た。
 生類憐みの令「馬の物いひ」の罪で悪夢を見たが、これにより朝湖は救われた。
恋い焦がれた江戸に帰れる。

晴れて江戸に戻った朝湖は画名を胡蝶の夢にちなみ英一蝶と改めた。
長い三宅島生活で枯れかけた一蝶の画才の泉は再び溢れていく。

最期に一蝶が描かれている作品について。
「元禄繚乱」に英一蝶が登場していたとは知らなかった。 演じられた方は片岡鶴太郎、成程。

小嵐九八郎『我れ、美に殉ず』
久隅守景、英一蝶、伊藤若冲、浦上玉堂の四人の絵師達の短編小説。
一蝶は人の顔色を伺う胡麻すり、容貌にコンプレックスを持ち、都市生活に執着を持つ人物として描かれている。
資料を丁寧に物語に編み込み、一蝶の一人称語りで物語はすすんでいく。
江戸への望郷の念、画材調達と其角との友情はこの江戸時代に生きる一蝶の独特語りがあるからこそ、更に迫るものがある。
絶望の淵から傑作を生み出す原動力はどこからきたのか、歴史小説の良さを味あわせてくれる一冊。

亀王丸と義村 



永正八年三月五日に亀王丸、後の足利義晴が誕生した。
父は十一代将軍足利義澄、母は阿与(阿子)末の者と伝わる。義澄は日野永俊の娘と結婚したが四年後に離縁している。 永正五年父義澄は義尹、高国らに京より追われ、近江岡山の九里備前守を頼りここに滞在していた。 そのような流浪の中での誕生であったが、もう一人流浪の中で生まれた子がいた、亀王丸の兄、義維である。 この義維の生年は定かでは無く、義晴と同い年とする説から二歳年長であるとする説などがあるが、この頃の話は二人を混同しているものもありややこしい。
義澄は合戦の最中にあることから、亀王丸を播磨の赤松次郎(義村)に預けることとし、母阿与と共に播磨に送った。
亀王丸等は密かに近江を離れ、塩川種満その家人三十余輩と共に摂津、丹波の脇道を通り、三木越えで播州に入ったという。
一方、兄の義維は細川之持に預けられている。この時の別れが後に不幸を招こうとは、もとはと言えば細川政元が悪い。
次郎は赤松庶流七条家の出、義村、出家して性因。
赤松再興を果たした政則を義父と洞松院義母とする。 政則の息女松の婿となり、赤松惣領家の家督を継いだ。洞松院は細川勝元の娘、次郎の後見人、二人についてのエピソードも面白そうだが、これは別の機会に。
亀王丸が播磨に入ったのは次郎が赤松勝範を倒し、政則没後の混乱が落ち着いてきた頃であった。
永正九年六月、細川高国が摂津に下向、尼崎で洞松院と会談を行い、義尹と次郎の和睦をはかった。
『赤松傳記』にある「御國の御成敗は御前様めしさま御はからひにて、何事も御印判にておほせつけられ候」を思い出すが、 先年の船岡山の戦いに勝利した高国、一方次郎は破れた澄元に与していたので、そうした事情と細川家との縁を頼ったのだと思われる。
永正九年十一月、赤松次郎と義尹の関係が改善した為、浦上、別所等が次郎の官途、偏諱拝領の為に上洛。 次郎は兵部少輔となり、以降義村と名乗るようになる。 
翌十年二月、「若君様御合体之儀」義尹と亀王丸の和睦が成立した。 亀王丸、義村の名代として赤松在田式部少輔(忠長)が上洛。 亀王丸、義村からは其々太刀、馬が、忠長からも太刀、馬、銭千疋が進上された。
この場には盛んなりし細川高国と大内義興等がいたが、義村もまた短い最盛期を迎えつつあった。 永正十二年、義村は分国法を制定。
ところで亀王丸の置塩での生活はどうであったか。
置塩城、城下は政則期に築かれたとされるが、亀王丸が入る以前から冷泉為広、高雄尊朝、豊原統秋といった 文化人の出入があり、歌会も開かれていた。
特に冷泉為広は義村と親密であったようで何度も置塩に足を運んでおり、足利義澄から拝領した玉葉集を義村に譲っている。 義村も為広に目薬を届けるなど交流は深い。
在田忠長も為広に和歌の教えを請い、熱心に歌道を学んでいたようだ。
冷泉為広は義澄と昵懇であったので、義澄が京を追われ近江に出奔した時、難を恐れて帝の裁可も得ずに落髪して出家している。 義澄亡き後の支援者の一人が義村であったのかも知れない。
為広は和歌の授業料なども受け取っている。上月孫三郎の例では銭百疋と太刀。
そのような為広が置塩に滞在した際に、何度か歌会が開かれた。場所は赤松兵部少輔亭、飯川山城守亭、播州若公御所等である。
亀王丸は置塩で御所を持ち、幼いながらも歌会に参加している。播磨時代の義晴は和歌を学ぶなど教養を身に付けられる落ち着いた 環境で播磨時代を過ごしていたのだった。
そして恐らく、洞松院からも色々と話を聞かされていたことであろう、、、
しかし平和は長くは続かない。


永正十二年、義村は分国法「公事条々」を制定した。
公事の式日を決め、喧嘩は公儀の許可が必要なことなど、守護権力を強化させる作用を期待したものであった。
この中に「一 女房公事停止事」という条文がある。裁判に女性が介入することを禁止したのであるが、洞松院へのあてつけに見えないこともない。
義村は洞松院や浦上氏らの傀儡の当主として擁立された側面がある。その義村が自身の権力を強化する動きを見せた時、 面白くない支援者達はその梯子を支えることを止めてしまった、むしろ外そうとさえした。
永正十六年、浦上村宗が反旗を翻し、以前より燻っていた義村と村宗の対立は決定的となる。
十一月、義村は村宗退治の為置塩から出陣、数千騎の軍勢を率いて備前に向かった。村宗は三石城に立て籠り、赤松勢は福立寺に陣を張り、その後三石城まで軍勢を寄せ猛攻した。
『赤松傳記』では三石城を攻める赤松勢であったが、名城でなかなか落ちない。そうした中、備中の松田将監が三石城の後巻 に来るとの雑説が出た為、櫛橋則高が和睦を調え、十二月晦日義村は帰陣したとある。
「播州陣敗破、浦上勝利、和睦之由、去五日注進云々」『実隆公記』
浦上攻めは失敗した。
翌十七年三月、義村は浦上与力の粟井、中村の城を攻める為、美作に出陣。今度は途中白旗城に立ち寄り諸勢を加えて美作に入った。
四月には中村五朗左衛門の岩屋城を包囲、村宗も三石城を出て赤松勢に向かった。
村宗は計略をめぐらし、赤松勢の内より意替の衆を出すことに成功。赤松村秀の弟中務丞(村景)が浦上方に寝返る。
十月六日、寄せ手の陣が破られて小寺加賀守則職、以下数百人が討たれ、その他の者も伯耆、因幡に落ち行き、義村は置塩に逃げ帰った。
浦上攻めに惨敗した義村の権威は失墜し、隠居の声すら出始めていた。
十一月、義村御曹司(政村)を村宗に渡すこととなり、政村は室津に置かれた。政村八歳。
洞松院、松御料人は村宗に同心し、義村を捨てて室津に入る。
義村は入道して性因と名を改めた。
義村であった時代はあまりに短い、求心力を失い、義母と妻の離反、息子も人質に取られた。 しかし義村は諦めてはいない。赤松を継ぐ者は「諦める」を口にしてはならないのだ。 勝手に言ってるだけだけど、、、
十二月二十六日、夜中に義村は亀王丸と供に置塩を退き、明石の衣笠五朗左衛門館に入った。
翌十八年正月、義村は再起をはかる為、御着に出陣、亀王丸も陣の中にいた。
赤松下野村秀、広岡村宣を先陣に更に軍勢を進める。一方、浦上村宗は三石の軍勢を従えて室津まで進んできた。
浦上の計略によるものか二月に入り、広岡村宣が突然村宗に寝返り、大田の陣は破れ義村の兵は退却した。 共に先陣を任されていた赤松村秀は広岡と不戦の契約をしていたので、大田で軍を止めてしまった。
主力を失った義村は浦上との決戦を果たせないまま敗北する。
こうして三度目の浦上攻めも失敗に終わり、十一日夜、義村は亀王丸を連れ御着を出て玉泉寺に入った。
亀王丸はまだ義村の手の内にある、義村にまさかの逆転はあるのか。
『赤松傳記』『鵤荘引付』などから義村の戦を見てみたが、裏切りばかりで胸が張り裂けそうになる。 義村治世の播磨をもっと見たかった。


永正十八年四月、赤松性因(義村)は亀王丸と英賀の遊清院迄出て来た。
先の戦の後、性因と誓紙を交わした浦上村宗が呼び出したのだった。わずかな間にここまで立場が入れ替わっている。
ついに亀王丸は村宗の手に渡り、性因は揖西郡片島の長福寺に移された。もはや捕虜同然の扱いである。
村宗が亀王丸を手に入れた裏には細川高国がいた。 高国と浦上の申し合わせにより、亀王丸は六月に上洛する運びとなった。目的は公方になってもらう為である。
兄の義維は細川澄元に擁立され高国に対抗していたが、澄元が病死した為に上洛は果たせなかった。 将軍義種も高国と対立し、京を追われている。
高国は義種に代わる新将軍を擁立する必要があった。
亀王丸の将軍への道が開いた。
鷲尾隆康の日記である『二水記』永正十八年七月六日条に亀王丸上洛の記事がある。
「播州若君御上洛也、近江御所御息也、数年赤松兵部少輔奉養育了、当年御十才云々」
隆康は見物する為に二条辺りまで出掛けると、そこで亀王丸上洛の行列を見た。
「申刻許御上洛、御輿被上簾了」輿に乗っている人物は簾を上げている様子、御披露目というより 中の人物が都の街を見物したかったのかも知れない。
中の人物というのは当然亀王丸である。
輿の簾の下に見えた亀王丸を見た隆康の感想は、、、

「御容顔美麗也」

亀王丸は美少年であった。
隆康を始め、行列を見た都の人々も感嘆したことと思われる。
義村が大切に亀王丸を養育していた理由を、別に勘ぐりたくなるところでもあるが、この年頃の少年なら肌も瑞々しく、末期に描かれた義晴像とはまるで違ったことであろう。
行列の騎馬衆数十人、徒の者は数えきれない程であった。
京に入った亀王丸は岩栖院を仮の御所とした。
七月二十八日、亀王丸は従五位上に叙され、「晴」の名を帝より賜り、義晴と名乗った。
翌月八月九日、義晴涅歯。「義晴御歯黒美」『親孝日記』
義晴の周囲では祝いの声が上がった。この日、義晴を見た高国も義晴の美しさに見とれていたのかも知れない。 鉄漿をした人間や歯を見て美しく感じる為には何が必要なのか。
一方の性因について。
その後、性因は室津の浦上被官実佐寺所に移された、その扱いは囚人のようだったという。
四月に亀王丸を渡してから約半年、こうした生活を送っていたようである。
大永元年九月十七日の夜、菅野、花房、岩井弥六等大勢が押し込み、性因は殺害されてしまう。 しかし性因は大人しく討たれた訳では無い。
討手が乱入した際、性因は討たれまいと戦っている。岩井弥六の左手首を切り落とすなど奮戦したが「是程御働無比類候へ共、大勢不叶御果成候」ついに討ち果たされてしまった。
 性因は武芸の心得もあったようである。
同じ地で、同じ時を過ごした亀王丸と義村のその後はあまりにも対照的。 義村が幽閉され、討たれた頃、義晴は将軍としてまわりから持て囃されていた。 将軍となった義晴は義村のことを、どう思い出していたのであろうか。

伏見蚊軍記


眠たしと思ひて臥したるに
蚊の細声にわびしげに名のりて顔のほど飛びありく
羽声さへその身のあるほどにこそ
いとにくけれ 『枕の草紙』
夏の夜の寝苦しさに拍車をかける蚊。
痒さもさることながら あの羽音は堪らない。思わず明かりを点けて仇敵を目を凝らして探すが こちらが攻撃の姿勢を見せると、何処かに隠れてしまう。手強い。
蚊について書かれた記録は多いが今回は『宗長手記』から。
連歌師宗長は駿河の生まれ、宗祇に師事して連歌を修行した。
旅をすみかにする ような人生を歩んだ宗長。大永六年にも駿河と京都を行き来ししている。宗長七十九歳。
高齢でこの活力には驚くが、この五年間で三度目の上洛。しかも翌年も上洛をしている。
そんな宗長の大永六年六月十五日の記述。
この日、建仁寺の僧達と対面した宗長は夜に伏見の宿に入った。
「伏見津田聚情軒一宿。桑風呂、腰痛養生、やがて平臥」
桑風呂は桑の葉などを沸かした薬風呂。宗長は腰痛の他、脚気も 患っていたようである。

「夜に入りて、園の竹に陣どる蚊ども、大なるちいさきも多打いで、家中にみちみち」
寝床に入っている宗長に蚊の大軍が襲いかかってきた。

「蚊の大将軍勢時のこゑただ雷のごとし」
宗長はこの蚊の襲来の時の事を軍記風に語っている。面白い!
蚊の羽音を鯨波に例え、雷のようだと表現する。
「蚊火を立、いかにふすぶれども、おもてもふらずこみ入、 古紙張の城はらふかたなく、夜もすがら団扇の粉骨もかひなし」
迎え討つ宗長は蚊帳の城に籠城。
籠城兵の武器はは蚊遣火と団扇である。 懸命に防戦する宗長勢、しかし蚊勢はものともせずに責め寄せてくる。 危うし宗長。
「暁がたにおもへば、これもうき世中にやと観じて」
蚊を追い払う事は出来なかった。
宗長にとって寝苦しく、長い夜であった。
「くれ竹のしげきふしみの蚊のこゑやはらふにかたきちりの世中  夏のみじかき比も、あけぬ夜のここちぞせし」
この頃の蚊対策は「蚊遣火」と「蚊帳」であった。
蚊遣火は蓬、榧、杉、松などを火にくべて燻した煙で蚊を払うもの。 蚊取り線香のような優しい物ではなく、ぼうぼうと煙を立てたので、 虫の前に人間がむせかえるような代物であった。 蚊帳は宗長の時代では普及が進んでおらず貴重品であったので、身分の高い者しか 利用出来なかった。関白道平が献上したり、足利義尚が所望したという記録がある。
『春日権現霊験記』にも蚊帳が描かれているが、それには貴人が蚊帳の中で寝て、 他の者は蚊帳の外で寝ている様子が描かれている。
当時蚊帳は絹製の高級品、松永久秀が支払った蚊帳代は千五百疋であったという。
蚊帳が一般に普及するようになるのは近世以降、天正年間に入り麻製の蚊帳を近江商人の西川甚五郎 が売り歩き、江戸時代にようやく夏の風物詩となっていく。 宗長がこの時使った蚊帳は紙製の安物の蚊帳。通気性が悪く暑苦しい代物であった。
蚊帳で寝た幼い日の記憶が蘇える。

肖像画の話

土佐光茂が描いた足利義晴の肖像画。
 検索をすればすぐに目にする事が出来る便利な時代になったものだが、 この義晴像を始めて見た人は、その異様な雰囲気に一瞬戸惑うかも知れない。
義晴の目は窪み、焦点が合っておらず、髪は痩せ、その顔からは生気が感じられない。
それもそのはずで、この肖像画は義晴が病没する直前に描かれたものであるからだ。
幼い頃から最期に至る迄の義晴と光茂の長い関係を思いながらこの絵を見ると、 やつれ果てた義晴を見た光茂の気持ちまで考えさせられてしまう。
今回は肖像画について。
肖像とはある人の顔、姿をうつしとった絵、写真、彫刻の像、容貌が相似る様をいう。
像主の生存中に描かれたものを寿像、没後に描かれたものを遺像と呼び、 中世の絵師達は像主と対看しながら、あるいは像主の姿を思い出し、 また記憶のあった者から特徴を聞きながら、資料を参考にしながらと様々な方法で肖像画を描いた。
描かれた肖像画は写実、記録として、遺影として、そして礼拝の対象として使用された。
例をあげると、足利家では尊氏を始め歴代将軍の肖像画が遺影として葬儀、周忌の場で使用されている。 
徳川家康、豊臣秀吉、武田信玄像などは神格化された例だが、藤堂高虎もその一人。
江戸時代、藤堂藩では家臣達が高虎の肖像画を家に持っており、正月や高虎命日の毎月五日に礼拝を行っていた。
高虎に限らず、大なり小なり藩祖となった多くの戦国武将達の肖像画が残り、神格化されている。 この辺りは御家の事情も色々ありと話は簡単ではなさそうだが。
博物館や資料館を巡って、憧れの人物の肖像画を見た感激は格別。 これは単に絵画の出来に対してくるものだけではない。

 肖像画は像主の依頼によって描かれた。
依頼を受けた絵師は依頼主の面前で容貌をスケッチして下書を描く。
そして絵師が依頼主にその下書を見せて伺いを立て、満足か否かを判断してもらう。
満足するかどうかは依頼主に懸かっており、何枚か描き直しをして、ようやく合格したという。
肖像画とはいえ、当時はそれ程の写実性は要求されなかった、必ずしも似せるとは限らず、むしろ理想像といったものの方が多い。
肖像画は依頼主の意向に沿うように描かれたものであったからだ。
中世近世肖像画が他の風景画や絵巻などと異なるのは、絵師が自身の作品であるのに構想を練る事が出来ない、自由に出来ない点がある。
依頼主の意に沿った例では、両目を描かれた伊達正宗が代表例であるが、室町時代の例でいえば足利義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)がある。
この像は義輝の十三回忌及び、追善供養の為に作られた遺像で土佐光吉作、依頼主は義輝の妻、養春院とされ、 生前の義晴を描いた下書を元に作られたという。
京都市立芸術大学芸術資料館所蔵の土佐光吉の作品に、生前の足利義輝を描いたと思われる下絵がある。 作者は源弐、後の土佐光吉。
この義輝は武人らしい凛々しい顔と特徴ある剛毛の髭の他に、顔中に斑点が描かれていいる。
疱瘡の跡と見られるが、先の足利義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)にはそれが見られない。養春院は追善供養をするにあたり、理想の義輝像を掲げようとしたのだ。
一方、足利義政は肖像画を飽くまでも似せるよう描かせたとも言われている。
土佐光信が描いた義政の肖像画は衣冠姿、緋扇を持ち、上げ畳に端座しており、清潔感のある落ち着いた 容貌で描かれている。
この元絵は義政の生前に描かれたものと考えられているが、この絵の特徴に周囲の環境が 描かれていることがあげられ、上げ畳に座った義政の背後には水墨山水図の襖が詳細に描かれている。
そして面白いのは義政の前に鏡台が置かれていること。
恐らく義政は鏡に移る自身の姿と光信が描いている肖像画とを見比べて指図していたとも思われる。
余はもそっと鼻は高いとか、扇の持ち方はこの方が良いであろうとか、義政は五月蠅かったのか。光信がやりにくいと閉口している姿を思わず想像してしまう。
話を戻す。
何度も描き直し合格した下絵を紙形(第一紙形)とし、これを更に整えて直した第二紙形を像主に見せる。
これが了承されれば、この紙形をもとにようやく本画の制作に入る事が出来る。
紙形は肖像画のベースとなるべき下絵である。 これが有る事で何枚もの同じ肖像画の制作が可能となり、時代が下っても、また絵師が変わっても同様の肖像画が描けるようになる。 またこうした下書は門人や流派の画技練習の素材にもなった。
紙形を元に、素材が薄い和紙や絹などの場合は透かして写し、それが出来ないものは念紙を使って図柄を転写し、本画の制作に入る。
こうした描き直しの段階で御役御免となった絵師達もいた。
亀泉集証は自身の寿像制作を狩野正信に依頼したが、紙形を何度か描き直させたが気に入らず、土佐行定に依頼相手を 変更している。
それでも意に沿わず、今度は窪田藤兵衛尉に依頼したがやはり気に入らない。
結局、狩野正信に依頼を戻しようやく完成したという。
交替させられた絵師達はいずれも名手とされる腕前。
「狩野法橋持予陋質紙形数枚来、以一ケ愜衆心定心」『蔭涼軒日録』
 狩野正信は紙形を何枚か描き、その数枚の紙形から本画に使用するものを選ぶわけだが、ここでは多数決で本画に使用する紙形が選ばれている。 このように紙形が何枚も描かれた例もあり、肖像画の数以上に紙形があったはずだが、現在まで紙形が残るのは珍しい。

そのような中で有名人の紙形が残っている。
紙形に描かれた人物は三条西実隆。
口髭と顎鬚を生やし、大きな瞳が印象的で穏やかそうな人物に見える。 こちらも検索すれば直ぐに見つけることが出来る。
実隆の功績は余りに大きい、現在に室町の生き生きとした姿が伝わっているのはこの人のおかげとも 言える、おまけにその姿まで残してくれているとは感謝感謝。
実隆も先の亀泉に劣らず、自身の肖像画に対しては厳しく絵師に接している。
「土佐刑部少輔来、北野縁起絵事相談之、又愚拙肖像紙形令写之、十分不似、比興也」『実隆公記』
義政といい実隆といい、光信も苦笑したことと思う。
 絵師も大変だったのだ。

鹿の話

先日少し気になった史料。
 鹿乃あひ火食候之人、又其合火食候人、如此甲乙丙、其外かやうのまハり 
 具以可被注申之由候也、恐々謹言       
       七月九日         持貞(花押)      
      田中殿 
              
石清水文書」。どうやら鹿を食用にするような、何かの質問のような内容だが…今一つ理解出来ない。
 もう少し見てみる。
持貞とは赤松持貞、田中殿とは田中融清のこと。
赤松持貞は赤松庶流。赤松円心の子貞範の孫に当たる。 将軍義持に近習として仕え、室町殿(義持)と社寺の連絡、調整役を担っていた。
持貞といえば容姿の美しさから義持の寵愛を受けた話や 赤松家の騒動の原因となった話がある。田中融清は石清水八幡宮社務、検校。田中系に最盛をもたらしたが、八幡神人等の強訴による騒乱事件が起き解任されている。

 石清水八幡宮の社務職は凶事があると社務の交替を行うとされてきた。
室町時代においては足利将軍の死去も凶事とされた為、将軍の代替わりがあれば社務も替わる仕組みであった。
融清は義満代の社務であり、義持代の社務職は善法寺宋清であったが、 宋清は「神事奉行緩怠」『建内記』であったので解任され、融清が再任されている。
さきの文書の年次は不明であるが、持貞がいることから融清の第二期社務の頃と判る。
 融清は応永十六年(1409)に第一期社務を解任され、十年後の応永二十六年(1419)八月に再任されている。強訴騒動による解任が応永三十一年(1424)六月であるので、文書の時期は応永二十七年(1420)から応永三十年(1423)頃 のものであると考えられる。
 ところで宋清が解任される直前に応永の外寇が起きているが、こうした事件も何か凶事として関係しているのだろうか。
本文で気になったのが「あひ火」。
次の文字に「合火」とある。

「合火」とは?
合火とは喪や穢れなど忌みごとのある家の火を用いること。
関連する言葉に、同じ火を使い合う「同火」、神事、祭事に使用する火と日頃使用する火を分ける「別火」などがある。
忌事や肉食は穢れとされ、火を通じて穢れが他に移るとされた。
当時はそう安易に火を起こす事が出来なかったので、火は火種として使いまわされていたが、合火を介した火を又合火といい これも又忌まれた。
この文書は「鹿乃あひ火」とあるので鹿食の合火、又合火の触穢についてどこまで穢があるのかを 持貞が融清に質問しているものである。
当時獣肉食は穢れのあるものとされ、これを犯したものは神域に近づくことを憚られていたのだ。 

 果たして鹿肉の穢れとはどの程度のものであったのか。
宛ては無いが融清の鹿合火についての融清の見解らしき書状がある。
「鹿[  ]ヶ日、同火之人と又同火、三七ヶ日候、得御意可有御披露候哉」
欠字もあり、これだけでは良く判らない。
もう少し詳しく判らないものかと調べてみると 『続群書類従 神祇部』の中に「燭穢問答」を見つけた。 問答形式で穢れについての見解が書かれているのだが、これがなかなか細かい。

例えば爪を切っての神社参詣は問題が無いが、血が出ているのであれば差し障る。
怪我をしている者は忌む。
「凡神事ニハ血ヲ忌。血ノ出ル間ハ忌ベシ」
血は忌むべきものであった。
人を殺害した場合は切り捨ては当日に限り穢れるが、すえ物であれば三十日。
すえ物というのは試し切りの死体の事。
首を切った刀は三十日間穢れる。
首を刎ねる時、縄を曳く者は罪人が死ぬと同時に縄を放せば穢れない。
家の中で殺すとその家が穢れ、その家に入ったものも穢れる。

 物騒な話が多いが、こうした中に鹿食について書かれた問答があった。

「鹿食の合火事。鹿食人と合日は五十日穢也。合火の人に。又合火三十日穢れ也。三転の憚也。合火せずとも鹿食の人と同家せば、五日を隔て社参すべし。」

殺人をした者より穢れが重い事に獣肉忌の強さを感じる。
それに鹿以外にも獣肉は多種存在するはずだが、大型動物では鹿についての問答しか 見当たらない。
この次の説明を見ると  

「其故は六畜の死穢は五日也。鹿猿狐等は六畜に准ずる也。合家の者に同家は五日の憚りナシ。其者に合火せずば無憚。但六畜の死穢五日にして。甲乙の二転を憚る。若相混ぜば五日を隔べし」とある。

六畜とは馬・牛・羊・犬・豕・鶏の六種の家畜であるが、これに鹿猿狐も準じるという。
天武天皇代の肉食禁止令以降、神道の米の神聖視と仏教思想による殺生罪により 肉食は排除されてきたが、この頃になると六畜は既に問答の対象以前の禁忌であったようだ。
しかし肉食全般が禁忌とされた訳ではない。

「羚羊狼兎狸の合火憚や。答。不及沙汰」

 カモシカや兎、狸といった肉食の合火は穢れにならないという。これは穢の軽重でみると魚食と同じレベルの扱いになる。
鹿が特別扱いされたのは神事における供物であったからでもある。
現在でも鳥獣による農作物被害の内半数近くを鹿猪が占めているが、当時も鹿による被害は深刻であった。
こうした鹿を狩る事は農作物に豊かな実りをもたらす事に繋がった。
現在でも各地の神社で鹿の狩猟を模した神事が行われており、諏訪の鹿食免などは鹿供物の例である。 朝来郡粟鹿神社のように鹿が農耕をもたらしたとして、鹿を祀っている例もある。
そして武士達にとっては狩猟は武力の象徴であった。
覚えきれない程細かに燭穢が定められているが、これを厳密に守ろうとしたのは貴族、武士達である。
さらに神社により禁忌の範囲も異なる。

『諸社禁忌』によると鹿猪を食べた者は百日の穢れ、共食したものは合火二一日、又合火七日の穢れとある。
石清水八幡宮では魚食三日、兎十一日、鳥食十一日、鹿食百日、同火三十日、猪食鹿と同じ、猿食九十日としている。『八幡宮社制』
 室町時代では神社禁忌も他の故実同様、多岐複雑化しており、独自の家伝書等も頻繁に作られている。こうした禁忌は世間一般に認知されたものではなく、正確に実践しようとするのであれば相応の教養が必要であった。
だからこそ持貞も質問している。
 まして中下層の人々にとっては大して関係の無い話であり、肉食も普通に行っていたようだ。
村人たちが猪を山鯨と呼び、魚の仲間として、兎は鴉鷺で鳥の仲間と称して食べていた話もある。
 またジョン・セーリスが『日本渡航記』に慶長年間の日本の食糧事情を記録しているが、「 日本での食べ物は全般には米食であり、次に魚、葉物、豆、大根、根菜。野禽、鴨、雉などの鳥を食べる。 鹿、猪、兎、山羊、牡牛もおり、豚肉や牛肉も売られていた」と記している。

 鹿食について見てきたが、最後に室町将軍の話。
「矢開には一に鹿、二に雀と申す義也、但鹿は公方様にはあげ申さず候なり」『矢開之事』
将軍と鹿食を遠ざける旨が書かれている。かつて貴族達は狩猟を武士に任せて、自らの身辺から遠ざけたが…
将軍は特別な存在であるとされた事例ががこうした所でも見られるのだ。

石の戦


今年は雪が少ない。大人になった今でも冬になると、昔雪玉を投げて遊んだ雪合戦のことを思い出したりする。そして、雪合戦とあわせて思い出すのが、当時、漫画か授業だったかで知った家康の石合戦。今川家の人質であった竹千代が、五月五日に阿部川の河原で行われた石戦を従者と見物に出かけた際、勢の多い組と少ない組が戦うのだが、多い組は数を頼り油断し、少ない組は一生懸命に戦うので少ない組が勝つだろうと当てた話。
現代でも通じる教訓的な話で、『武徳大成記』など家康関連の史料に書かれている。

ここに書かれているような石戦は中世から近世にかけて、庶民の間で端午の節句の日などに行われていた。

石戦は印地打といい、端午の節句の場合は菖蒲打ともいう。
双方に分かれて石を投げ合う行事や争いであり、当然怪我をすることも多かった。
明応五年(1496)五月五日に京都で印地打が流行した時は、死人や手負いの者が大勢出たとあり、(『実隆公記』)応安二年(1369)四月二十一日に行われた賀茂祭では、日暮れ頃、雑人達が一条大路で戦い始めて印地打となり、死者が四五人出たという。付近の状況は「通路流血之条」と表現されている。(『後愚昧記』)
祭りに際しては兵達が警護についたとある。いまでも祭りの日には警官と喧嘩騒ぎがつきものであるが、当時は増して物騒だったようだ。
印地打は石を投げあうだけなので費用などはかからないように思える。しかし史料を見ていると印地の為に家を差し押さえる話や、印地家代と称して金銭を支払わせた例も見られる。(「興福寺官符衆徒衆会引付」)公の行事として行われた印地打は儀式、規模もそれなりのもので、伴い費用も発生するものであった。
踏み込んでいないので詳しくはわからないが、祭りの為に家を差し押さえるのは気の毒な気がする。
行事で行われた石戦でも多数の死傷者が出る。まして実際の戦で石を投げたとなるとその効果は絶大であった。
石はもっとも原始的で身近にある武器であり、古今東西に使用例が見られ、とりあげるとキリがないので中世あたりから少しみてみようと思う。
戦時における投石では武田軍の投石部隊が有名である。
元亀三年(1573)十二月、信玄が三方ヶ原で家康と戦った時のこと。

『信長公記』には
「武田信玄水役之者と名付、二、三百人真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ候」
と先陣に投石兵を投入した記述がある。
推太鼓を打ちながら襲いかかってくる武田軍、これは恐ろしい。


そういえば印地打が描かれている絵などをみると、組の中に太鼓をもっている人の姿がみられる。
打音により人々はさらに高揚して、合戦はより激しくなっていく。これでは死傷者が出るのも当然である。
『太平記』では赤坂城に籠る楠木正成が、迫る幕府軍に対して大木や大石を落として防戦した記述がみられる。また島原の乱では原城に籠った宗徒達が、材木、火を付けたかや、鍋、石などを投げ落して抵抗したという記録がある。(「野尻松斎宛書状」)城を守備する兵達が石を落として敵を防ぐという記述は多くの軍記物にあり、但馬でも竹田城や岩山城などで、大石を落として羽柴軍と戦う話がみられる。(『武功夜話』『但州一覧集』)このあたりになると信頼度に難があるが、実際の山城でもこうした投石用とされる石が見られる事例が多くある。
備後一条山城、美作医王山城、因幡蛇山城、但馬岩井城、近江佐和山城、飛騨三枝城、越後片刈城をはじめ全国各地で見られ、飛礫が戦の常套手段であったことがわかる。飛礫用の石は集石した状態で曲輪などから見つかっており、丸みを帯びた河原石である場合が多い。
岩井城では拳大から20㎝程度の角礫が飛礫として発掘されている。
大きいものは両手持ちでないと運搬出来そうにない程であり、投げるよりむしろ落として戦ったと考えた方が良いかも知れない。殺傷能力は推して知るべし。当時の兵達が飛礫により負傷したことは史料にも見られる。応仁元年(1468)九月、京都今出川であった合戦に関する史料「吉川元経自筆合戦太刀打注文」によると、元経(経基)配下の浅枝上野守、浅枝孫五朗、三宅図書助が飛礫で負傷したとあり、続く十月の鹿苑院口合戦でもまた浅枝上野守、浅枝孫五郎が飛礫により負傷している。 (「吉川文書」)

月で負傷する勇敢な浅枝一族、流石は鬼吉川と呼ばれる将の兵達である。
この史料にある「於鹿苑院口之櫓手負」の記述から、乱初年から戦用の櫓があったことがわかる。
おそらくこの櫓から落とされた石により、湯枝氏は負傷したのだと考えられる。当時の戦の様子を知る記録としても面白い。
天文十八年(1549)石見国安濃郡大田表の合戦で出された軍中状の史料である「吉川経冬軍忠状景写」には、経冬配下の町野掃部助が矢疵を右足に、左足には礫疵を受けたとある。郎従三人の内の一人も左肩に礫疵を受け、残る二人がそれぞれ弓矢で敵を仕留めたという。 (「石見吉川家文書」)当時の戦が弓矢と礫が飛び交う戦場であったことをうかがい知ることが出来る史料。
それにしても掃部助は両足に怪我をする程の率先垂範振りで部下を率いていたのか。なんとも従い甲斐のある上官である。
どうして吉川家にはこうときめく人たちが多いのか。
この他、天文十一年(1542)の出雲赤穴城、永禄六年(1563)の白鹿城、熊野表の合戦などでも飛礫による負傷者が出た記録がある。城を守る手段として投石が安易かつ有効であり、入手も容易であったという理由から多用されたと思われるが、攻城側が投石をしたという話もある。元亀二年(1571)八月、山中鹿介が籠る伯耆の末石城を吉川元春が攻撃した。
八月十四日付の毛利輝元書状写に
「至伯州末石之城、元春其外取懸候、一両日中可為一途之由候間」とある。(『閥閲録』)
毛利の攻撃は凄まじく、寡兵の鹿介は支えきれずに城は僅か数日で落ちる。
二十日には「末石就落去之儀示給候」と元春が語っている。
この戦は『陰徳太平記』をはじめ幾つかの軍記に描かれており、『老翁物語』には「先づ末石へ召懸られ候。
当日より城の廻り、柵を御結せ成され、其間各々罷り居り候。
城の土手たかく候て、此方よりの矢鉄炮しかじか役を仕らざるに付て、俄に西棲を三重仰せ付けられ、それより矢鉄炮の儀は申すに及ばず、礫を打籠め候」

と毛利軍が攻城櫓を置いて、櫓から弓矢鉄砲、礫で攻撃した記述がある。
僅か数日の攻城戦でこうした施設を置けたのか疑問ではあるが、城攻め側も投石を用い得たことがわかる。他の事例でも良いので裏付けが欲しいところ。次は投石でも少し変化球を。『園太暦』によると延文四年(1359)年八月。都で天狗が横行した時の話!!冷泉室町辺では小童が天狗にさらわれる事件が起き、さらに「又以飛礫打所々、武家権勢道誉法師宅打之、以外事云々」とある。当時天狗達は都のあちらこちらで投石をしており、佐々木道誉宅にも打ちこまれたのだという。
梅津辺りでも天狗による投石があり、これに耐えられなくなった僧が引っ越しをしたと書かれている。京都は怖い。
天狗と石といえば天狗礫という怪異があるが…。
最後は石合戦の話に戻る。応永二十七年(1420)七月十五日、相国寺で盆の施餓鬼供養があり、その際に喝食達の間で石合戦が行われた。
しかし、ここでとんでもない事故が発生したのである。
「相国寺施餓鬼之間、喝食数輩以飛礫打合、室町殿御烏帽子ニ飛礫打当、喝食悉被追出云々」 (『看聞日記』)なんと、この様子を見物していた将軍足利義持の頭に石が当たったのだ。とんでもないことだ。幸いにも、喝食達は「出ていけ」と追い出されただけで済んだようだが、もう少し後の将軍だったら命は無かったかも知れない。
歴代足利将軍は波乱に満ちた生涯を送っているが、流石に石が頭に当たった将軍もいないと思う。

フォークでおとしてみた。

2017年3月7日火曜日

文化系政則 後

続き
狩り
政則は武家の嗜みを疎かにしていない。
狩猟、鷹狩、犬追物に関連する史料も幾つか見られる。
「赤松此間数日醍醐水本坊ニ在之、鷹仕之云々、近日宇治橋寺ニ在之鷹用云々」 『大乗院寺社雑事記』
延徳二年(1490)四月二十九日に播磨で政則は狩猟をしている。その際家臣の魚住又四朗の放った矢が 誤って難波新四朗に当たって死なせてしまったという。『蔭凉軒日禄』

そういえば政則が亡くなる前に鷹狩りをしていたという話もある。
「政則御煩ひあり。御慰に御鷹野に御出。坂田のくど寺と御宿にて、彼寺に御逗留候所に、思ひの外御煩取詰候へて寺にて御他界」『赤松記』

次は犬追物。
犬追物といえば宿敵の山名氏も家伝書を残す程の入れ込みようであり、時熈、宗全、教豊、政豊といった 山名歴代も犬追物を好み、山名一党の者も人々の犬を掠奪し、終日犬追物を射た程である。
政則も何度も犬追物を張行している。
明応二年(1489)九月八日に行われた犬追物は小寺、浦上等赤松家の者達が主な参加者となって行われているが、この日は政則も加わっている。検見は上月則武。この家、楽しそうだ。

犬追物は犬馬場と呼ばれる広場で行われる。
犬追物を描いた絵は幾つもあるが、絵の中の犬馬場にあるように犬が逃げまわり、馬が駆ける、矢が飛ぶ、見物の為の桟敷に柵と、犬馬場にはある程度広い場所が必要であった。
広大な敷地を持つ細川邸は馬場の施設もあったようだが、赤松邸には流石にそこまでのものは無い。政則は犬追物を張行するにあたり、安国寺、妙覚寺、本能寺といった寺の敷地を使用している。
犬追物をする寺を転々としているところをみると、寺側も馬場として使用するにあたり 難色を示したのであろう、敷地を借りるのも容易ではなかったと思われる。それに犬射蟇目矢という特殊な矢を使用するとはいえどうしても殺生を伴う。騎射は寺に相応しくない催事であった。

更に政則は播磨でも犬追物を行っていたようで延徳二年に
「当年赤松殿赤松ト言所ニ、山ヲ引ナラシテ犬馬場ニ用意云々」 『蔭凉軒日禄』

平地を利用するのではなく、わざわざ山を造成してまで馬場を用意させている。
政則の犬追物熱も負けてはいない。

狩りで汗を流した後の温泉は格別。
政則は温泉好きであった。
好きな温泉は美作国湯郷温泉。
現在も温泉地として有名。この温泉に政則は度々湯治の為に訪れている。
『蔭凉軒日禄』によると
「去月廿九日赤松公爲湯治作州下國」 長享二年十月四日条
「赤松公作州湯郷湯治了、去十六日被回駕於播之赤松舊宅云々」 延徳二年六月二十三日条

政則は美作、湯郷温泉に滞在している間は垪和氏の屋敷や長興寺などを宿所としている。「長興寺以可替赤松公之宿云々」
この寺は現在もあり湯郷の観光名所の一つ、御越しの際は是非お立ち寄りを。
政則は他に山城の温泉にも赴いている。

故実書絵画
侍所所司を務めた程の政則は武家故実についても関心を持っていた。
政則は飛鳥井雅康から『蹴鞠之書』を贈られている。
当然蹴鞠を嗜んだのだろう。政則の蹴鞠姿を想像する。
また小槻晴富には『矢開記』を所望し、その写しを手に入れたりもしている。

政則は絵も欲しがっていた。
肖像画。
誰の?

なんと足利義尚。
ことの発端は義尚の死去から始まる。
長享三年(1489)三月二十六日足利義尚が死去。翌月の九日に葬儀が行われ、その際狩野正信が描いた義尚の御影が使用されている。足利尊氏の御影も尊氏周忌に使用された記録がある。
その数日後、義尚の母である日野富子が尊氏像を観たいと所望した。
尊氏像は束帯姿である倭歌御絵と甲冑御絵があったが、その後狩野正信が義尚の出陣絵を描くこととなったことから、富子は息子の肖像を尊氏の甲冑御絵にならって描かせようとしたと思われる。母の愛か。
ちなみに義尚も尊氏像に関心があったようで等持寺にあった尊氏像を取り寄せている。
五月に入り義尚出陣之像の下絵が出来たので亀泉集證に見せたところ、同席していた政則が義尚像作成を依頼したのであった。

「狩野大炊助持常徳院殿御出陣之像下絵来」
「約政則公之所請画像之事」
 
 『蔭凉軒日禄』長享三年五月四日条

その後七月になり政則の所望した義尚像が完成した。

「赤松所誂常徳院殿画像、自狩野助方来」
『蔭凉軒日禄』長享三年七月四日条

政則が手に入れた義尚像はどう使用されたのか、その後どうなったのかは不明である。
赤松政則の文化的な面を見て見たが、赤松家が大名として残らなかったのは本当に残念とした言いようがない。これだけの家の歴史や文化が残され伝えられていれば、どれだけ今の歴史に貢献したことか。

文化系政則 前


赤松一族の歴史を語る中のハイライトの一つが赤松政則期。
嘉吉の滅亡から赤松再興、応仁、文明の乱、山名政豊との戦いなど波乱に満ちた彼の生涯は 大変魅力的で面白い。軍旅に身を置く期間が長かった政則と戦は切り離せない。
則祐、満祐、義村といった歴代赤松当主については和歌など文化的な面が取り上げられる機会も目立つ。はたして政則にそうした文化的な側面がどれ程あったのか。 今回の主役は赤松政則。野蛮な話は抜きにして、文化的な政則の活動をみていきたい。

刀匠として
政則が自ら作刀したことは有名。
政則は備前長船の刀工勝光、宗光兄弟の指導を受けて作刀したという。
現在14口作刀したことが知られ、9口が現存している。

延徳元年(1489)に作られた刀銘
銘 為神山駿河入道周賢   
   
兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十一月六日

銘 為小倉小四朗源則純
   兵部少輔源朝臣政則作
     
延徳元年十一月十五日
銘 為廣峯九朗次郎源純長
   兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十二月十一日

これらの刀剣は政則が美作に滞在していた時に製作された。
この刀を与えられた廣峰純長、小倉則純は政則に付き従った被官達。政則は自作の刀剣を家臣達に恩賞として与えていた。
延徳元年、この年政則は三十五歳。播磨に侵攻した山名軍を破り播磨、備前、美作を奪還した頃のもの。軍も一息つき、美作に滞在していた政則はこうした趣味ともいえる時間を持てるようになっていた。

銘の日付の間隔は九日~一ヶ月程度、これを製作期間とみるかどうか。江戸時代の刀匠が一ヵ月に作刀した本数は四~六本程度といわれるので、製作期間とするのも妥当なところではある。しかし同年である長享三年(1489)に製作された二振りの刀の銘には八月十六日、十七日と連続している。銘を入れるのは研ぎなどの仕上げの後であるので、政則が作刀したものを仕上げに出した後に、銘を入れて完成させたと思われる。
ともかくこの半年程の間に政則は五本もの刀を製作している。波にのっていたのか集中力があるのか。これ以前、文明十四年(1482)にも半年程の間に五本作刀している。

芸能
赤松の芸能といえば「赤松囃子」 播磨白旗城に落ち延びていた六歳の足利義満を赤松家中が松囃子でお慰みしたことから赤松家の恒例行事となったとされる。松囃子とは正月に行われた囃子物を主体とする祝福芸能をいう。鼓や笛を伴奏とする囃子物の芸能で、これに七福神などの仮装行列、作り物を登場させて演出した。
大名が沙汰して行う松囃子を「大名松拍」と呼ぶ。『看聞日記』

赤松の松囃子、赤松囃子は毎年正月十三日に行われるのが恒例であった。
正長二年、永享元年、永享二年、四年といった正月十三日に赤松囃子が行われた記録がある。
永享二年(1430)の赤松囃子は特に派手な催しであったようで
「風流超過去年、驚目了」
「其後福禄寿如去年、惣テ物数三十一色云々」 『満済准后日記』
芸能、演出などのことを「風流」と称した。 この年は福禄寿など三十一種類もの出し物が登場したという。
こうした大名による松囃子は赤松家だけでなく、一色、山名、京極といった諸大名も行っている。松囃子が開催される際は囃子物の他に能や狂言も併せて行われており、それがやがて武家による 猿楽を盛んにさせていく。

政則も猿楽を好んだ武将の一人。
『蔭凉軒日禄』『大乗院寺社雑事記』『実隆公記』などによると政則は 屋形や陣所で盛んに猿楽を行っており赤松家中の者達が主に舞を舞ったという。浦上則宗も度々歌舞を披露している。

明応二年(1493)六月二十三日赤松邸での酒宴の席では 赤松左京大夫、別所大蔵少輔、浦上美作守、上原対馬守、 小寺勘解由、後藤藤左衛門尉が舞を舞っている。
家臣達と共に政則自身も演じていたのだ。

政則は
「雖云幼少、尤好音曲」 『蔭凉軒日禄』
とこうした手猿楽や囃子を大変好んだようだ。 政則は宇治猿楽の鼓打ち幸弥七という者を自身に奉公させていたという。

思えば猿楽で将軍殺しをする程の一族である。
文明十三年(1481)正月十三日の将軍御成が延期となり、あらためて二十日に義政夫妻の赤松邸御成があり、大量の礼物が贈られている。十三日は赤松囃子の日であるので、おそらくこの時も義政、富子は政則の松囃子や猿楽でもてなしを受けたものと思われる。
政則は将軍を松囃子、猿楽でもてなし、家臣達もまた松囃子、猿楽で政則をもてなした。
「作州小原陣松拍、今月十七日有之云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年二月十五日条
「正月十六日、自浦作陣所、企松拍、赴大将之陣所、其返報二月十七日有之  書立上之、凡拍物数七十色、能七番、狂言七番云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年三月三日条

美作小原の陣でのこと。
正月十六日に浦上則宗が自身の陣で松囃子を開催し、政則も則宗の陣所を訪れてもてなされている。その返礼として今度は政則の陣で囃子物七十種、能七番、狂言七番という派手な松囃子を開いたのだ。

延徳三年(1491)九月二十日、近江三井の将軍義材の陣で猿楽が行われた。御座敷御相伴衆は畠山尾張守、一色修理太夫、細川兵部少輔、赤松兵部少輔。政則の伴衆は浦上美作守、上原対馬、小寺勘解由、明石與四朗の四名。
この日はまず将軍お気に入りの観世太夫が演じた。この時政則は観世太夫の歌舞に感じ入って五千疋を褒美として与えている。
次に御相伴衆が皆巡に舞いを舞っていった。畠山、一色、細川等も舞ったという。
赤松による舞いは皆が褒めた程であった。『蔭凉軒日禄』

ところで斯波、山名、京極の三家はこの日欠席している。
「不例不参也」 山名…

2017年2月28日火曜日

化身の武将。



第六天魔王 織田信長。
『日本耶蘇会年報』にあるルイス・フロイスの書簡によると、天正元年(1573)武田信玄への書状で信長が自身の事をそう記したのだという。語感と一般的な信長像、いわゆる革新的な、物好き、奇抜な、残酷なといったイメージとあいまって、よく見かける表現である。第六天魔王とは仏教用語であり、諸説あるが欲界の天の高位にあたる第六番目の天を指し、仏道修行の妨げをする存在、いわゆる仏敵、天魔だという。日本においては神道神話にも登場する。天魔の所業という表現は中世でもよく使われており、寺院の破壊や狼藉、放火や殺人といった悪行や、火災などの災害に対して使用されている。比喩として、あるいはその存在を信じてか。戦国武将では上杉謙信が佐竹義重とその家中が謙信に対して疑心を抱いている件について「誠々天魔之執行歟」と表現している例がある。(「上杉文書」)信長は多くの戦をしており、戦を仕掛ける時には相手に非があり、自身こそが正義であるという主張をしているケースが見られるが、そんな信長が実際に天魔を名乗ったのか疑問に思う。上杉謙信といえば我が毘沙門天の化身と語ったという逸話が有名。出典は『名将言行録』であり実際のところは不明であるが、深く毘沙門天を信奉した謙信のイメージに合った素敵な話で気に入っている。
う一人毘沙門天の化身と呼ばれた武将がいる。
その武将は山名宗全。応仁の乱西軍大将、山名氏最盛期の人物である。

山名氏の系図などには「面赤故世人赤入道云」と書かれており、『応仁記』でも赤入道の記述がみられる。宗全が赤ら顔であったという話は巷に流布されていたと思われる。
そんな宗全の事を歌った漢詩がある。

山名金吾鞍馬毘沙門化身鞍馬多門赤面顔利生接物人間現開方便門真實相業属修羅名属山山名宗全は鞍馬の毘沙門天の化身である。鞍馬の多聞天の容貌は赤面であり、その多門天が利益をもたらす為に人間に現れた。方便の門を開いて真実のあり方を示す。その業は修羅の道を歩み、その名は山に属す、即ち山名である。宗全と同時代に生きた一休宗純の『狂雲集』に書かれている歌。この歌を宗全の好評価とみるか、風刺とみるか。一休は宗全より十歳年上、一休に宗全との面識があったのか逸話以外では覚えが無いが、臨済禅を通しての接点があった可能性は高い。宗全は一休から毘沙門天と称されているが、自身も十二天を崇めており、宗全が鷲原寺に納めたという十二天像図には宗全の署名と花押があり、そこに毘沙門天の姿もある。毘沙門天とは無縁という訳では無かった。やがて応仁・文明の乱となり、一休はその有様を、修羅が血気盛んに怒声を振るわせ戦い、負けた時は頭脳が裂けその魂は永く彷徨うであろう。戦死した兵を弔うというような凄まじい表現をしている。
焼け野原と化した京を見て一休は「咸陽一火眼前原」と歌った。
かつて宗全を持ち上げた一休は何を思ったのであろうか。
『狂雲集』には他にも宗全についての漢詩が書かれている。
金吾除夜死山名従此黄泉幾路程太平天子東西穏九五青雲無客星
乱の最中、宗全が死んだ。黄泉路は幾ばくあるか。

東西の戦も止み、天子の世は穏やかになったが、人物はいなくなった。という意であろうか。西軍の山名宗全と対した東軍大将の細川勝元。
宗全が亡くなって程なく勝元も死去するが、
蓮如の法語、言行を伝える『空善記』によると、勝元は臨終の際に家臣の秋庭(元明)を呼んで「われ死すとも、小法師があり。故は愛宕にていのりもうけたる子なり…」「小法師があるほどに家はくるしかるまじきぞ」と言い残したという。
小法師とは九朗政元、半将軍と呼ばれた細川政元のことである。

『空善記』では政元を聖徳太子の化身であるという。「細川大信殿をばみな人申候。聖徳太子の化身と申す。そのゆへは観音とやはた八幡との申子にてあり。」臨終の際に勝元が言い残した言葉には、勝元夫人が愛宕詣でを続け、観音に祈り続けていたある夜、聖徳太子が夫人の枕元に現れて口に飛び込んだのだという。その後夫人は政元を身籠ったとある。
荒唐無稽であるが、蓮如とその外護者である政元との親密振りを物語る話。僧でありながら蓮如は政元を魚食で接待したという程。奇抜な話の多い政元は誕生の際でもその本領を発揮している。
蓮如・教団と政元の接近がその後の戦国時代での悲劇を生む一因であったのかも知れない。政元は本当に火種だ。

猫の武将。



普段は食事の時間以外、ツンと知らん顔をしている我が家の愛猫も、冬の寒さに耐えきれずに人の膝の上に乗りたがる。毛を膨らませて、聞き耳を立てながら丸くなっている姿は何とも可愛らしい。ついそのまま足が痛くなるまで読書などをして、一緒に過ごしたりする。猫が武将になったゲームが人気らしい。戦国時代の人々も猫とともに生活をしていたようで、武将と猫の話も割と多い。
井伊直孝と白猫、鍋島化け猫騒動、甲斐宗運と猫と茶臼剣、最上義光の膳を食べた猫、秀吉の愛猫など。
小田氏治にいたっては肖像画に猫まで一緒に描かれている。猫好きここに極まれり。絵師に描かせた際に一緒にいたのか…
猫は家に棲むという。捨てられても、追い出されても、また家に戻ってきたという話もある。氏治の生涯も似たものがあるような気がする。
戦国時代あたりでは猫は繋がれて飼われるケースが多く、毛利輝元や板倉勝重らが猫を繋ぐことを禁止する触れを出している。
猫は愛玩動物として飼われただけでなく、古代に猫が輸入された理由が鼠害対策であったといわれるように、鼠狩の益獣としても活躍してきた。勝重の禁制により鼠害も減ったのだという。
我が家にいた猫もよく鼠や雀、蝉などを捕まえてきていたのを思い出した。

猫が愛玩や害獣対策以外に利用された例もある。
「ナラ中ネコ、ニワ鳥安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中ヘ方々隠了、タカノエノ用云々」
(『多門院日記』天正五年五月七日条)
信長が奈良中の猫や鶏を徴集しに来るので、人々が取られまいと猫達を僧坊にに隠したというのだ。集める理由は鷹の餌にする為だという。
猫を餌にするなどとやはり信長は天魔だ。猫を護ろうとした奈良の人達もほほえましい。

の餌にされたのは猫や鶏だけではない。

「山名一党多好田猟、踏損田畠、農民又愁傷之、捕人々之犬、終日射犬追物、或殺犬、人食之、鷹養之汚穢不浄充満者歟、更難叶神慮哉、管領被官人堅加制止、不及鷹飼云々、於食犬者、被官人等元来興盛歟、主人不知之謂歟」
(『建内記』嘉吉三年五月二十三日条)

山名の一党が農民達の田畑を荒らし、犬を掠奪して犬追物や鷹の餌にしたという。更に犬は精力が付く為、人も犬を食べたとある。
山名氏の横暴を示す際にも使われる史料でもあるが、掠奪はともかく食犬は珍しくない習慣だった。当時の遺跡から出土した犬の骨には食用にされたとみられる解体痕が見つかった例もある。ルイス・フロイスや貞成親王なども薬として犬肉を食べるということを書いている他、食犬は現代に至るまでその例は多い。

ちなみに山名氏の家伝書『山名犬追物記』には「ノガレ犬」という作法があり、犬追物に使う最初の一匹はわざと矢を外して逃がすのだという。ささやかな情けだが。

最後に。
我が家には「猫神神社守護」と書かれたお札がある。鹿児島の仙厳園にある猫神神社のもので、御祭神は猫神。


神社の由来には、島津義弘が秀吉の朝鮮出兵の際に七匹の猫を連れて行ったとある。猫の瞳孔の開き具合で時を知る為だったという。
猫時計、なんと素敵な。
残念ながら七匹の猫のうち五匹は戦死してしまったが、二匹が無事生還して、時の神様として祀られることとなった。島津軍は猫まで勇ましい。


生還したニ匹の猫の名はヤスとミケ。まさに猫の武将である。

2017年2月24日金曜日

大将は後方に。

武士。つわもの、もののふ、さむらいといった言葉で表現されることもある。
「つわもの」や「もの」は武器の意味でもあり、これを扱っていた者達に対してもそう呼ばれるようになったのだという。今回はそんな武士の大事な仕事である合戦の話。合戦は兵と武器でもって相手の戦力を削ぎ、戦意を失わせて勝利を得る。合戦で勝利する要素は兵の多寡、立地、気象条件、運用と多岐にわたるが、もっとも効率的に勝利を得る方法が敵の大将を討つことであった。将棋でもチェスでも王を詰めれば勝ち。今川義元や陶晴賢等がその実例である。強大な勢力を誇った織田軍団ですら信長を失った後は機能不全に陥り、そのお陰で追い詰められていた各地の戦国大名達もその命運を保っている。合戦においては大将を守る事が最重要であった為、大将は城や陣の奥深い場所で、近習達に囲まれてその身の安全を確保していた。弓鉄砲礫が飛び交い、槍で突かれ、武装した兵や馬に衝かれる最前線からは一定の距離、防御施設による隔たりがあった。
朝倉宗滴は「合戦ノ時武者奉行タル仁諸勢ノ跡ニ居タルハ悪候、先立タルカ本ニテ候」と合戦における武者奉行の心構えを説いている。 (『朝倉宗滴話記』)
宗滴曰く、武者奉行が最前線にいなければ、兵達が手柄を見せる為に大将のいる後方まで下がってしまい手薄になるので良くない。敵に手薄になった隙をつかれると負けてしまう。更にここで大将が退却せずに、踏ん張れば討ち死する危険すらある。
合戦の際、大将が実際の戦闘が行われている場所から距離を置いていたことが判る。戦場の体験から事例や心構えを語る宗滴の話はリアリティがあり面白い。
地侍や国人クラスの武将達は大規模な兵を持つことが出来ず、あるいは大名の指揮下にあったので最前線で自身が戦う事も多く、負傷、討ち死することも多かったが、守護、戦国大名ともなると最前線に出るのも稀で、負け戦であろうとも余程のことがない限り討ち死などはしなかった。討ち死した大名といえば今川義元、龍造寺隆信、相良義陽、斎藤道三あたりが思い浮かぶが、大勢は出てこない…
しかし大名自身が自らを危険に晒す戦闘行為をしたという記録がある。
有名なところでは上杉謙信。
永禄四年(1561)に武田信玄との間で行われた川中島合戦に関しての近衛前久の謙信への書状。

「今度於信州表、対晴信遂一戦、被得大利、八千余被討捕候事、珎重之大慶候、雖不珎義候、自身被及太刀打段、無比類次第、天下之名誉候…」。(『歴代古案』)

謙信が自ら太刀打ちに及んだことが記されており、
信玄との一騎打ちの根拠としても出される史料。どのように前久に伝わったのかはわからないが、信玄との合戦における勝利の報とあわせて謙信の太刀打が絶賛されている。謙信にとっては普通の事だというのが恐ろしい。
明応二年(1493)二月、足利義材は畠山義豊を討つ為に河内に出陣し、畠山政長、斯波、武田、一色、赤松といった諸大名がこれに従った。この戦の最中の四月に明応の政変が起き、細川政元についた赤松政則は逆に義材、政長と対することとなった。翌月の閏四月二十二日に行われた堺合戦で政則は畠山政長方の軍勢と戦っている。
「昨日廿二卯刻、根来衆為始紀河両国之勢一万計乎堺隣郷向村幷近辺之山々陣取候、左京兆自身打出、数刻及合戦候、同申刻敵悉切散、大得勝利候…」 (『蔭凉軒日録』閏四月二十四日条「上月則武書状」)

政則が白兵戦を挑んだとまでは言い切れないが「自身打出」という表現をしてまで、この合戦の模様を記している点が気になる。他の大名にはこのような表現がされていないところを見ると、政則のとった行動は目立ったものであったのかも知れない。政則はこの三月に政元の姉(又は妹)の洞松院を娶っている。更にこの頃、政元に所領安堵を認めてもらうよう家臣を通して申し出ている。

政則はこの合戦で武功をあげて政元の信頼を得る為にも、自身を危険に晒してまで、その姿勢を見せなければならなかったのだ。

政則は刀匠として自身が作刀した刀剣を家臣等にも与えていることが知られているが、斯波氏に仕えた尾張下四郡守護代織田敏定にも自作の刀剣を贈っている。
その銘には
表「為織田大和守藤原敏定
  兵部少輔源朝臣政則作」
裏「長享三年八月十六日」
とある。
赤松政則と織田敏定は朝倉氏を巡る交渉や近江、河内攻めなどを通じて誼を通じており、特に赤松被官である浦上則宗と敏定は頻繁に接触している。そうした関係から刀を贈られたと思われるが、この敏定の肖像画は細身で上品に描かれている政則とは対照的に、ふっくらとした野性的な雰囲気すらある武人として描かれている。印象的なのが右目を瞑った姿であること。

「某歳、軍于州之清州、為賊所射、一目失之、不抜其箭、以攻以戦、賊乞降而退」(『補庵京華外集上』「織田敏定寿像讃」)

この賛は文明十年に織田敏広が清州に拠る敏定を攻めた際のことが書かれているとされる。合戦の最中、敏広勢から射られた矢が敏定の目に刺さったが、敏定は抜かずにそのまま戦い続けたのだという。
なんとも壮絶な守護代クラスの最前線の戦いである。

赤松政則と宿敵関係にあった山名宗全。その父である時熈も明徳の乱の際に勇猛果敢に戦っている。
『明徳記』の京都市中、赤松勢との戦闘を終えた氏清勢が休息をしているところに僅かな馬廻りで突撃をかける時熈の場面。
「時熈よき所よと見てんげれば、二条の大路へ打出て、奥州の兵大勢にて控えたる真中へ懸入て、一文字に裏へわてとをり、取て返して一揉々て、又十文字にかけ破て、二条へさとかけいでたれば、五十三騎の兵も主従九騎に成にけり」
氏清勢に突撃を繰り返した時熈は従う兵を次々と失い、自身も追い込まれ絶体絶命の危機に陥ったが、垣屋と滑良が救援に入り、彼らの討ち死と引き換えに虎口の死を逃れることが出来たという。
軍記物ではあるが『明徳記』は乱の翌年または翌々年に書かれたとされる史料でもある。細かい描写は脚色だろうが、時熈と氏清ともに果ててもおかしくない激闘であった話が伝わったからこそ、書かれた場面であると思う。山名氏も一族滅亡の瀬戸際を経験している。この内野合戦で守護大名氏清は討ち死しているが、赤松則祐の子である満則、持則も氏清の軍勢と戦って討ち死している。
重責を担っている大将は迂闊に身を危険に晒してはならない。

2017年2月22日水曜日

赤松義雅の晴れ舞台


今回は籤により選ばれた将軍として有名な、室町幕府六代将軍足利義教に関する話。

応永三十五年(1428)正月十八日足利義持死去。
この日、前夜に八幡宮で引かれた籤の結果が明かされ、義持の弟である青蓮院義円が時期将軍に選ばれた。後の足利義教である。

翌日から将軍になるべく元服の手続きが始まる。
元服の儀といえば数日程度をイメージするが、義教の場合は選ばれて後、実に二年半もの年月をかけて一連の儀式が執り行われている。
十歳で青蓮院門跡に入った義円はこの時三十五歳、異例の高齢での将軍選出である。
義円が将軍になる為には環俗、任官、元服と多くの行事をこなす必要があった。
応永三十五年三月十二日。還俗、従五位左馬頭叙任、名を義宣と改める。
四月十一日、判始、乗馬始。
四月十四日、御沙汰始。御的始。従四位昇進。
更に元服迄の間に正長改元、後花園天皇擁立が行われている。
こうして正長二年(1429)三月九日、元服が行われた。義宣三十六歳。
面白いのは元服に至っても、義宣が烏帽子懸を用いて烏帽子を固定させなければならなかったという話。法体であった時から髪が生え揃うまでの時間が足りなかったという。
義教の将軍就任については『普廣院殿御元服記』に詳しい。
義宣に冠を着ける儀は管領畠山満家の一門より行われた。

加冠、畠山持国。
理髪、畠山義慶。
打乱役、畠山持幸。
泔坯、畠山持永。
時刻は亥刻、午後十時。元服の日時は陰陽師の阿陪有富が選定した。
更に護持僧による加持祈祷が行われている。
翌日からは大名、諸社からの祝儀が続き、その後も次々と将軍元服に関する儀式がこなされていく。

三月十五日、征夷大将軍宣下、参議・左中将昇進。
義宣は名を義教と改めた。
「名字義教ト改名、元義宣世志のふと被読成、不快之間被改云々」  (『看聞日記』正長二年三月十五日条)
三月二十九日、権大納言に昇進。
四月十五日、御判始。
八月四日、右近衛大将に昇進。
八月十七日、八幡社参始。

そして永享二年(1430)七月二十五日。
一連の儀式の締めくくりとも言うべき「大将御拝賀」が行われた。
この大将御拝賀は将軍をはじめとして、公卿、殿上人、大名、侍他供奉人等大勢が行列して室町殿から都の通りを経て参内するという大きな行事であった。

この時の様子は『普廣院殿御元服記』、『普廣院殿大将御拝賀雑事』、『満済准后記』などに詳しく書かれている。
この日は良く晴れた日であり、将軍は申の刻(午後三時頃)、公家、大名、官人等が蹲踞する中、出発した。こうした日取りは陰陽師が決めるものであった。
満済は行列進発の前に加持が行われたことも記している。義教は束帯姿で剣を帯びていた。
行列の先頭は侍所が務める。
この時の侍所は赤松満祐である。
義教の代になり満祐が侍所に任命されたわけであるが、大将御拝賀での重役を務めるには問題があった。
「侍所。帯甲冑、于時赤松左京大夫入道性具。依爲法躰斟酌。舎弟伊豫守義雅勤其役」 (『普廣院殿御元服記』)
満祐は出家して法体であり御拝賀の儀に支障がある為、弟である赤松義雅が代役を務めることとなったのだ。
郎従三十騎を連れた義雅は、浅黄糸鎧、金刀を帯び、重藤弓を握り、大中黒の矢を背負い、黒毛の馬に乗り、従者らが兜、床几等を持ち付き添った。
兵は皆、色毛鎧を着、兜や敷皮などは各々の従者が持ちこれに随った。
僕達は紺の直垂に銀薄で文を押したものを身に付けていた。
次に小侍所。狩衣姿の畠山持永が郎従十騎を連れて続く。

満済は路地に用意された桟敷で大将御拝賀の行列を見物したと書いている。
「悉以奇麗驚目了」であったという。
行列を見物した都の人々も、凛々しく、絢爛な武者達の姿を見てため息をついたことと思う。

 更に笠持十人、居飼四人、御厩舎人二行四人、一員三人が続き、殿上前駈三十四騎、地下前駈十騎、御随身番長、番頭八人、帯刀帯二十二人と続いて将軍の御車となる。
御車には御簾役、御沓役、御車副二名、御牛飼一名、副御牛飼四人、御雨皮持仕丁二人、御随身二人、御傘持、下﨟御随身五人、雑色六人、等が付いていた。

こうした詳細は安全上の事情から厳しく秘密にするべきものであるが、故実としてこれを記し残したとあるのも面白い。

後衛には侍十騎、官人五人、扈従公卿二十三人と供奉人が続いた。

そして後衛の目玉ともいうべき一騎打。大名一騎打といわれる名誉ある役である。
この時の一騎打には畠山持国、佐々木持光、富樫持春、土岐持益、斯波義淳がなっている。狩衣姿であった。

その後に義淳の郎等十騎、総奉行四人、更に童、調度懸、雑食四人、如木二人、中間四人、笠持、床木持が続いた。
大将御拝賀とはこれ程の行列を組むものであったのだ。

御拝賀の行列は萬里小路を北、二条を西、油小路を北、中御門に至って東、室町を北、近衛を東、東洞院を北と経て左衛門而陣に至った。
辻辻は大名により警護され、事前に路の清掃も行われたとある。

『満済准后記』には御拝賀の事前準備や根回しについての記事もある。
注目すべきは「大名一騎打」についての記事が幾度か出て来ること。

一色義貫が将軍御拝賀において、大名一騎打の最前の役が欲しいと申し出ていたことが書かれている。
義貫の祖父である一色詮範が義満の拝賀の際に大名一騎打最前を務めたので、今回もこの例に習って一色を一騎打最前にして欲しいというのだ。
義貫は山名時煕、赤松満政などにも働きかけていたようだが、一騎打最前は管領がつくという決まりであるので、今回の一騎打は最前が畠山、次が一色になるとして、義貫の申し出は通らなかった。
結局、今回の大名一騎打に一色の名前は無い。義貫は不服として御拝賀に参加していない。
「次座ニ罷成條不便儀也。且可爲家恥辱云々」 (『満済准后記』永享二年七月二十日条)

畠山の次座に甘んじることは義貫には我慢ならなかったのだ。
この御拝賀の直後、義貫は義教より不興を買っている。
大名一騎打はこれ程に大名にとって大変重要な役であった。

そして義雅はこのような大イベントの先頭を飾る栄誉の機会を得たのであった。
まさに義雅にとって人生の晴れ舞台である。

赤松義雅は後に義教から所領没収、嘉吉の乱で満祐とともに最期を遂げる幸薄い武将である。しかし彼が残した千代丸の子、政則により赤松は再興されていく。

武将の落とし物

昭和に法隆寺が大修理された際、心柱から一本の扇が発見された。
なんとこの扇は秀吉の物だという。秀吉が秀長を訪ねた時に法隆寺に立ち寄り、そこで柱の穴を覗き込んだ際にうっかり落としたものではないかと。
先日たまたま読んだ記事で真偽の程は定かではないが、なかなか興味を引く話ではある。
という訳で今回は落とし物。
秀吉の扇といえば亀井玆矩の話。
中国大返しの時、姫路での軍議で玆矩は秀吉から恩賞希望地を聞かれた。しかし望んでいた出雲は毛利と講和した為に絶望的である。秀吉は出雲以外の地を選べと言う。
ここでの玆矩の言葉がかっこいい。

「海内の地に於ける出雲を除く外、望む所なし。琉球国を賜はらば、伐ちて之を取らん」  (『道月餘影』)
これを聞いた秀吉は大いに壮なりと感じ入り、腰に挿していた金団扇に「六月八日 秀吉」「羽柴筑前守」「亀井琉球守殿」と著してこの扇を玆矩に与えた。
以降、玆矩は琉球守と称した。

玆矩を代表する有名な話。実際に「亀井流球守とのへ」と記された秀吉朱印状も残っている。

そんな有難い金団扇であったが、朝鮮役で李舜臣軍と海戦した際に遺失して朝鮮側に渡ってしまった。遠い戦場にまで持って行ったのか。

朝鮮側の史料『李忠武全書』にこの団扇の事が記されている。

「倭将船捜得金団扇一柄、送于臣處、而扇一面、中央書曰、六月八日秀吉著名、右邊書羽柴筑前守五字、左邊書亀井流求守殿六字、蔵于漆匣…」
先の姫路軍議の文言と一致している。国際的な落し物になってしまった。
ふと思ったが仮に秀吉直筆だとすれば、果たして秀吉がすらすらと漢字を書けたのか、秀吉直筆の文書は平仮名が多かった気がする。しかし書かせれば済む話ではある…真相や如何。


続いて竹中重利。

この人は竹中半兵衛(重治)の従兄弟にあたり、半兵衛の領地から知行を受けていたが、後に秀吉に仕え、関ヶ原合戦では黒田如水に誘われて東軍に与した功で豊後府内二万石を賜っている。
府内城下町整備などの内政に力を注ぐ一方、馬、鑓、鉄砲、剣術などの武技を家臣に奨励するなど武芸にも強い関心を持った人物であった。
重利は黒田如水親子との交誼も深い。

ある日、如水の饗応を受けた重利はそこで何本かある刀剣から好きなものを選べと言われた。重利は短刀を選んだ。
如水は何本も刀剣があるのに本当にそれで良いのかと不思議がったが、重利がそれで良いならとこの短刀を贈った。
後日、重利が京都へ鑑定に出してみると、その刀はなんと正宗であった。重利は大いに喜んだという。  (『豊府聞書』)

しかし事故が起きた!!
重利が西国に下向した時にこの正宗をうっかり海に落としてしまったのだ。
漁夫に探らせて正宗は無事取り上げられたという、重利も胸をなでおろしたことであろう。

『享保名物帳』によるとこの短刀は長八寸七分、不知代。
表忠に「横雲正宗」裏に光徳判と赤銘があったとされる。
本阿弥光徳は天正、慶長頃の目利。

この短刀は新古今和歌集三十七首、藤原家隆の
「霞たつすゑの松原ほのぼのと波にはなるゝ横雲の空」
という歌にちなんで「横雲正宗」と名付けられたという。 (『詳註刀剣名物帳』)


海に刀剣を落とした武将には大物もいる。

その名は足利尊氏。
建武政権から追討され、戦に敗れた尊氏が九州から再起を図ろうとした時の話。
「尊氏将軍九州進発之時、見乗御舟時、篠造之御太刀自御舟被取落、沈海底、曽我入海取出之、依其忠功、如此名乗…」  (『蔭凉軒日録』長享二年三月十六日条)

意気揚々と進発しようとした矢先、尊氏はうっかり篠造の太刀を海に沈めてしまったのだ。縁起でもない出来事だ。しかし部下達の不安は尊氏以上だったと思う。
この大将大丈夫かいなと。


この太刀は尊氏に従っていた曽我左衛門尉(師助)により海底から取り出され事なきを得た。
正宗、義経の弓と瀬戸内では物がよく落ちる。

この篠造の太刀は『享保名物帳』に「二ツ銘則宗」の名で紹介されている。
長二尺六寸八分、不知代。

尊氏以来、足利将軍家に代々伝わり、後に義昭より秀吉に進ぜられて愛宕山に奉納された。
『明徳記』の中でも「篠作と云御太刀をぞ佩かせ給たりける」と山名氏清を迎え討つ足利義満が篠造之太刀を佩いていたことが書かれている。
永禄の変など波乱続きの将軍家でよく残ったものと思う、その頃には既に宝物と化していて使用されず無事だったのか。将軍家の盛衰を見てきたまさに生き証人ともいうべき太刀である。手放した義昭はさぞ無念であっただろう。


最後は伊達政宗の落とし物。

「政宗公御落馬被成、御足ヲ被打折候、御養生候而御足ハ付候ヘトモ、御痛ニテ御出馬抔可被成躰ニ無之候故…」  (『伊達成實記』)
『伊達氏治家記録』によると天正十七年(1589)二月二十六日夜に米沢城下の谷地で、政宗が乗っていた馬が急に驚いた為に飛び降りたが、その際に足を折ったという。
政宗は随分痛がったようだ。


落とし物は落とし物でもこれは自身を落とすという話。

そういえば細川忠興も初めて甲冑を付けた際に腰掛けていた具足櫃が抜け落ちて、仰向けに転んでしまったという逸話があったが、やはり彼等はエピソードまで只者ではない