2017年3月10日金曜日

武将達の言い分


戦国の世の人々は何を思っていたか気になるところ。
毛利関連の文書などからは隆元や元就、経家等の心情をうかがうことが出来るが、他の武将達はどうであったか。
史料を眺めていてふと目についたものも幾つかある。史料上の文言をそのまま字面通り受け取るのはどうかとも思うが、武将達の公の見解として簡単にみていきたい。

天正六年(1578)二月、別所長治が織田から離反して毛利についた。
昨年の大河ドラマでも取り扱われた出来事であるが、織田と毛利 が播磨を挟んで睨みあいを続けていた頃のもの。
毛利の誘いと期待、織田の勢いと逆らう者には容赦の無い姿勢。播磨の武将達ははどちらにつくべきか悩んだ。
天正六年三月二十二日付で小寺官兵衛に宛てた織田信長朱印状。
「今度別所小三郎、対羽柴筑前守、号存分有之、敵同意候
断、言語道断之次第候、然而無二令馳走之由、尤以神妙
候、別所小三郎急度可加成敗之条」
(「黒田家文書」)
信長は毛利に寝返った別所長治を「言語道断」となじり「急度可加成敗」と言っている。寝返りを多く出した信長であるが相手が信長に歯向かった時の文言。

この五日後に信長は秀吉に書状で上杉謙信が死去した事を伝えている。

謙信が「相果」たのは「珍事」な事だという。
毛利を相手にしている秀吉にとっても、毛利と連絡をとりあっている謙信の動向は気になるところだっただろう。
この前年に信長が伊達輝宗に出した書状には謙信の事を 「就謙信悪逆、急度可加追伐候」(「伊達家文書」)と非難している。
信長にとっての敵は征伐すべき悪であった。
この後の別所氏の三木城をめぐる戦いの経過は周知の通り。

大軍を動かす為には大義名分が必要であったが、戦いはより大規模になりより凄惨になっていく。
部下の中には躊躇い、罪悪感に悩む者もいた。

「去十六日書状、今日廿、到来、委細被見候、宇喜多、南条書状同前候」
「鳥取面事、先度桑名具申遣候、弥丈夫令覚悟之由、
尤以可然候、彼城中下々、日々及餓死候旨、可為実儀
候、最前表裏仕候族天罰候間、彼是可打果之段勿論候、
弥堅可申付事専一候」
(「沢田家文書」)
天正九年(1581)八月二十日付で信長から鳥取にいる秀吉に宛てた書状。
吉川経家等が籠った鳥取城の兵糧攻めが開始されて三カ月が経った頃のもので、既に雁金城は落ちて丸山城と鳥取城の連絡も断たれた状況であった。
これによると鳥取にいる秀吉と京の信長との連絡にかかった日数は四日とある。
信長が鳥取城で餓死者が出ているとの報告を受けて知っていたことも判る。
この十六日付の秀吉の文書が残っているのかわからないが、信長は秀吉の文面から現場の罪悪感や士気の低下を感じ取ったのかも知れない。
信長は秀吉等を叱咤する。
これは裏切り者達に対する「天罰」であり彼らを討果たすのは当然であると。
この後、鳥取城内では更に凄惨を極める光景がみられることとなる。

信長は相手を悪しざまに罵っているが、相手側はどうであったか。
本願寺顕如が石山合戦の最中、天正四年(1576)五月に各地の門徒に送った書状。
「今度信長表裏之趣、紙面に不及申顕候、且者覚悟之刻候、
しかれハ、当時すてに籠城之儀、みなゝ可有推量候。
此度の懇志、別而有難事候、当寺破滅之時ハ、一流も断
絶候へき事、あさましく候、歎入計候、よくゝ思案を
めくらされ候へく候、聖人への報謝と申へきハ、此時た
るへく覚候
…略…
老少不定の人界なれハ、無油断、法儀之たしな
ミ、肝要たるへく候、不信にて、命終候ハヽ、永世後悔
ハ、際限あるましく候、能々心得られ候へく候、委細端
坊可申候、穴賢」
(「明蓮寺文書」)
「娑婆ハ一旦の苦ミ、未来ハ永生の
楽果なれハ、いそき阿弥陀如来をふかく頼、信心決有て、
今度の報土往生の素懐をとけ候と相成、其上ハ、仏恩報謝
のため、万事取持いたされ候事肝要に候」
(「常蓮寺文書」)
前の文書は播磨の英賀門徒等に宛てたもの、後の文書は加賀、越中、能登といった 北陸の門徒達に加勢を促したもの。
容赦の無い織田軍に対抗する為の力は信心であった。
「当寺破滅之時は一流も断絶」
「聖人への報謝」
「永世後悔は際限あるましく」
「娑婆は一旦の苦しみ、未来は永生の楽果」
「仏恩報謝」
と危機感をあおり、信仰心の欠如に対する威し、そして信長との戦いが仏恩への「報謝」であると説いている。
石山本願寺には毎年各地の門徒達から大量の贈答を受けており、播磨の門徒から毎年鯛百匹が送られて いたという記録もある。また顕如が紀州門徒に宛てた書状でも英賀、高砂から石山本願寺への海上交通の維持について説いている。
この時期には門徒や軍需物資も送られていたが、織田は新関を置いてこうした人や物の流れを阻んでいく。
やがて石山本願寺を支援していた周囲の勢力も制圧されていき、天正八年(1580)正月には本願寺は「御兵粮玉薬已下万御払底」の状況に陥るまでになっていた。
下間頼廉は「不限一紙半銭」でも良いから支援が欲しいと門徒達に訴えている。もはや石山本願寺にはこれ以上信長に抵抗する余力は残っていなかった。
この年に顕如と信長の間に講和が成り、顕如は石山本願寺を退去した。

こちらは自己弁護に近いもの。
慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に至る前の石田三成と真田昌幸の書状の遣り取りの中。

「先書ニも申候丹後之儀、一國平均ニ申付候、幽斎儀者一命をたすけ、高野之住居分ニ相済申候 長岡越中妻
子ハ人質ニ可召置之由申候処、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、大坂之家ニ 火をかけ相果候事」
遠く上田の地にいる昌幸は随分早いタイミングで丹後の情勢や大坂の細かな情勢を知っていた。 三成はガラシャを死なせてしまった弁明として、留守居の者が命令を聞き間違えて殺してしまったと言っている。 幽斎についても一命を助けたと言っている点も含めて言い訳めいた印象も受ける。三成ごめんなさい…
ガラシャの死をめぐる見解についても考えさせられる文言。

最期は少し時間を遡った永禄十二年(1569)の文書。

「今度毛利乱入国中、既当家断絶之處、従但 馬国凌遠海、至于島根忠山切渡、数剋之構勝負、亡大敵、 雪会稽恥畢、然国家鎮安泰也」
(「日御碕神社文書」)
尼子再興軍が出雲に上陸した頃、勝久が日御崎神社に社領を寄進した時のもの。 あわせて山中鹿介、立原久綱等の連署奉書もある。
「毛利一族之者共、就当国乱入、当家断絶之以来三四年、然今度佐々木勝久、為散其 欝胸、従丹州以舟数百艘至島祢着岸之刻、防戦雖及数度、敵無得利乍敗北、国家静謐畢」
毛利により尼子家は断絶してしまったが、鹿介達の尽力により再び出雲の地に帰ってくることが出来た。
尼子再興の希望を叶えてくれた勝久と合戦での勝利に対して「然今度佐々木勝久 為散其欝胸」 は正直な感想だと思う。
この言葉に尼子再興を夢見る武将達のこれまでの苦労と勝久への期待、再興への熱い思いを感じる。
月山富田城に掲げられた四つ目結紋の旗が目に浮かぶ。
鹿介、勝久主従はやっぱり好きだな。
大勢の人間を動かすためには大義名分が必要だが、立場が違えばその言い分も随分違う。これらの文言は立場上のもので実際の考えとは違うだろうが、彼等の本音の成分も少しは混ざっているように思える。
軍記物のようにはっきり熱く語ってはくれないのだ。

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