2021年3月5日金曜日

出石散歩 -西の大竪堀ー

 

 出石城を訪れる人は鳥居の連なる階段を登り、或いは大手門からの登城ルートを使い、二ノ丸、本丸と巡り、最上部の稲荷曲輪でお詣りした後、出石城下の展望を楽しむ。という方も多いと思います。

 出石城は慶長八年(一六〇三)に小出吉英が山頂の有子山城から山麓の出石城へと主城を移行する為に整備をしたと伝わっています。稲荷曲輪、本丸、堀、石垣など出石城は近世城郭として整備されました。

 以前はこの時に有子山城は廃城となったとされてきましたが、最近の研究では有子山城も一部改修を施し、出石城も整備するなど両城を一体的に利用したと考えられているようです。有子山城は江戸期も管理され続け、今に至っています。

 今回はそんな出石城をより深く楽しむ為のスポットを。

 出石城には本体ともいえる石垣の城の東西の山斜面にそれぞれ大竪堀が存在します。その内西側の大堀切を紹介します。

出石城本丸の上にある稲荷曲輪。


稲荷曲輪から少し登ると更に石垣を持つ城郭遺構があります。
                               



稲荷曲輪上の曲輪。

 


曲輪に整列した石があります。何の施設だったのでしょう。


曲輪から伸びる登山道。
慶長期まではここが登城ルートだったとされます。
この曲輪はこの登城路を守る曲輪では?とも考えられています。
この曲輪からトラバースすると…

 


!!!こ、これは…


出石城西の大竪堀の起点にぶつかるのです。
ここは大竪堀の起点、鉤状に屈曲しています。


大竪堀。麓まで落ちています。かなり急です。


大竪堀麓より。



大竪堀は西の丸駐車場からも確認出来ます。

 かつてはここから水堀となり池に繋がっていました。現西の丸駐車場付近がその池でした。大竪堀は内堀と共に出石城を守る池、水堀から竪堀となり本丸を囲うように連続していたのです。


参考文献『「但馬国」出石の城を解剖する』、『豊岡市の城郭集成Ⅱ』、他

※訪問の際は史跡保護、安全、迷惑を掛けない事を最優先にお願いします。危険個所もあります。決して無理をしないように。




2021年3月3日水曜日

出石散歩 ー城下町大火ー

  城下町出石。皿蕎麦と時計台辰鼓楼で有名な但馬の観光地。町は城下町のかつての姿を諸所に残し、そうした歴史の名残を眺めながら町を歩くのも楽しい。

 今回はそんな出石城下町が大火事に見舞われたという話。なんと町の三分の二程が消失してしまったという物凄い火災があったのです。

 

概要

出石大火災が起きたのは明治九年(一八七六)三月二十六日夕刻の事。

火事の原因は入佐町岩鼻に独居する旧藩卒が泥酔して鰯を焼いた火の不始末と強風が原因という。火災に見舞われた町は谷山、伊木、材木、東条、入佐、魚屋、内町、本町、宵田、鉄炮、川原、柳、田結庄、水上。

ザクっとですが城下町絵図に火災町区を炎で記してみました。城下町東南の大きい炎が出火場所。堀が城への延焼を防いだ事もわかります。

 

井戸淳戸長報告

当時の戸長の報告によると、延焼町数十四、全焼戸数九六六、半焼五、焼死五名、負傷者十四、神社・仏堂三九、土蔵二九十、部屋一八六、物置き、水車小屋九七、掲示場一、橋全焼三、半焼四。

水車や掲示場、橋が重要な施設で管理されていた事を物語っているのも興味深いです。

火災の規模に比べて死者が少なかったのがせめてもの救いでは。でも犠牲になられた方がいらっしゃったのです。

 この大火事は遠い場所でも…少し離れた出石神社では中門付近に燃えた書冊が吹き飛んできたといい、さらに隣国丹後は宮津からも火の明かりが見えたと伝わる。

 そんな出石大火の名残も城下町歩きで見つかります。

 

火伏稲荷神社(東条地区)



明治九年の大火の際、出火町近隣にあったにもかかわらず焼失を免れています。

以降、東条地区の方々を中心に神社は守られてきました。

「火を伏せる神社として」

 

国朝天女御稲荷様(魚屋地区)

以前も付近にありましたが、大火以降にここに移転され、火の神として祀られています。この稲荷の使いは女狐といいます。

 影響

城下町の大部分が焼失した為、生活基盤を失った旧士族が出石離れをしたという。出石の三年後の人口は千人減の五七九七人でした。そして但馬の中心的役割を果たしていた出石に代わり豊岡市が代替機能を担った事も後の両町の差に繋がったようです。

また一説では出石城下の再建の為、急増した家屋建築の需要で木材が不足し、当時建てられた家は正面が立派で奥は見えないので省力化されたともいいます。

今回は出石大火についてでした。



参考文献『出石町史』第2巻 通史編下、他

丹後の言葉

 先日丹後の史跡を散策した際、出会ったご年配の地元の方と会話をする機会があった。その方が話される丹後弁は適当な表現かはわからないが、この地で長年暮らした方ならではの、自然で美しい丹後弁、耳に残るやさしい言葉だった。帰宅後も丹後弁のことが気になり少し調べてみることとした。

 

丹後弁の概要を理解するには言い回しを知るのが手早い。

何点か挙げてみると「えりゃー」「うみゃあ」「にゃー」「かまう」「ようけ」「わや」「ほうだなー」「おみゃー」といった言葉がある。有名な話ではあるがこれらの言い回しは東海地方、特に尾張弁と共通するものがあるのだという。共通点があるという話なので全く同じであるとの誤解がないよう。

丹後地方の方言についての研究では『丹後・東海地方のことばと文化』という調査報告書が京丹後市教育委員会より発行されており大変わかりやすい。今回の記事は多くをこの報告書に頼らせて頂いた。

 

 丹後地方でも方言は地域ごとに特徴を持つ。宮津市東部や舞鶴市は京阪式のアクセントで話し、宮津市西部、伊根町、与謝野町、京丹後市は東京式アクセントと、大きく二分される。京阪式は雑に説明すると所謂関西弁や京言葉に近く、東京式はここでは山陰地方の方言グループに属すると言えるという。市町の位置関係がわかり難い方には、丹後半島より東側が京阪式、丹後半島以西が東京・山陰式と感覚的に理解して頂いても良いと思う。更に丹後西端の久美浜は但馬方言にも近い特徴を持っているのだとする。

個人的な感覚でも福知山や舞鶴の方の話し方は「せやさかい」などの言い回しや発音など関西弁だな、少し違うなと感じることが多く、逆に久美浜の方は近しいものがあるように思う。

 

 東海地方の言葉はその言い回しを耳にした経験が少ないが、愛知県の中でも尾張弁は西日本的、三河弁は東日本的との指摘があるという。両者は兄弟言葉として注目されてきたが、その共通点を見ていく。位置関係では尾張弁と丹後弁は共に京阪地区方言の周辺、東西両端に位置するという共通性を持つ。

 

音声・音韻面にみられる類似性としては、二重母音の拗音化の共通がある(きゃきゅきょ…)。先に例を挙げた「えらい」が「えりゃー」にや、「赤い」が「あきゃー」がある。

音の変化の法則性の共通点を持の例には「ei」の転呼「おまえさん」から「おまいさん」、「u+i」の二重母音を含む言葉例「さむい」が「さみー、さびー」をはじめとした例、「無くなる」を「のーなる」のような長音化の例、「で」で理由や念押しを示す例「今日は雨だで」「これは嫌ですで」や「明日は来るんやで」など。こうした言葉の説明は大量の事例説明を必要とする為、自分のレベルでは把握もまとめる事出来ないので、この程度にしておく。

ちなみに柳田国男の方言周圏論、所謂「かたつむり」で説明すると丹後、尾張は「でんでんむし」系の地域となる。

 

両方言にみられる類似性は音声、音韻面、文法面にしても平安時代以降にみられる言語事象が殆どであるという。つまり、方言の共通化を考えるにあたり、平安以降の丹後と東海地方との関係性を調べる必要がある。しかし平安以降で尾張丹後間における集団的な人々の移動の形跡はなく、直接的な関係は推測し難いとされている。偶然に似たような言葉が使われるようになったのだろうか。

 

『丹後・東海地方のことばと文化』の記事を引用しながら丹後弁について述べてきたが、丹後と東海の中世期における共通点として、室町時代一色氏の分国であった点が挙げられる。

丹後は天正期の一色氏滅亡までその分国であったことが知られる。東海に於いては尾張智多郡、海東郡、三河国渥美郡が一色氏の分郡であった。

河村昭一氏によると、一色氏の智多郡支配は守護代、郡代にあたる職階を置かない一色氏の分国支配体制においては特殊な例であり、守護から直接、御賀本氏、倉江氏といった在地の者、小郡代的地位の者に下達するシステムを取っていたのだという。『愛知県史』では守護又代として延永氏系、遠藤氏系を不確定ながら挙げている。両者は丹後守護代でもある。

果たしてこうした一色氏の分国支配期に方言の丹後への移動があったのだろうか。やはり時代の支配者により方言や多数の人々の移動があったとは考え難いし、他国においてもそれが一般的であったという例は知らない。

 

他には畿内を支配した東海出身の織田、豊臣により東海方言が中央から地方に広まったとの説もあるが、これも納得し難い。

 

 丹後と東海を結ぶ線でもう一点挙げたい。『丹後国御檀家帳』である。中世丹後に於いては伊勢講が盛んであり、有力国人等もこの伊勢講を熱心に支援していた。田中純子氏は文亀・永正年間(150121)の丹後内乱以降、守護一色氏や石川氏、伊賀氏、小倉氏による三奉行体制では丹後国の突出した勢力を抑える事が出来ずにいて、丹後国を一国のまとまりとして保持しようとしたバランス維持システムに伊勢講、すなわち『御檀家帳』をその装置に組み込もうとしたとしている。

これから見ると伊勢の御師、伊勢講を通じて伊勢、東海地方との交流があった事は確実であるが、方言の共有とまではいかないだろう。

 

 方言に関する話が丹後にある。

中院通勝は京の公家である。天正八年(1580)六月に宮女の件で勅勘を被り逐電し、丹後田辺城の細川幽斎を頼った。丹後滞在期に通勝は入道し、也足軒素然と称した。その間に幽斎との親交を深め、歌道の師、幽斎より古近伝授を受けている。また幽斎の娘を夫人として、孝以、通村らを儲け、丹後で育てているが、この幽斎の娘は養女で一色左京大夫義次の娘である。

慶長四年(1599)に勅免を得て、十九年振りに京に帰ったが、舞鶴で生まれ育った通勝の子、通村らは京に戻った後も京都弁が話せず丹後弁のままだったという。まさに訛りはお国の手形である。そしてこの話は当時京と丹後で言葉が違っていたということを示している。

後に通勝は田辺城に籠城していた幽斎を諭す勅使の一人として田辺城に赴いている。

 

中世の方言といえば、フォロワーさんに教えて頂いた情報ではあるが、毛利氏においても方言の使用が認められるのだという。例を挙げると「きょくる」は人をまともに相手にせず、問題をはぐらかして言う意、「ざまく」は対象が目に余るほど雑なさまである意、「大儀がる」は骨の折れることを嫌がる、「てこ、てこをする」は人の手伝いをする、「ねばくち」は口が重いこと、「ひやうろく」は一人前の成人としてきちんと事をなすことができない人の意など。また『雑兵物語』は上州言葉が見られるのだという。

 

中世における丹後と東海の接点を見てきたが、方言の共通についての有力な手掛かりはわからなかった。アンテナを張り続けていれば、思わぬ分野からそのヒントがあるかも知れない。

 

追記 丹後と東海の方言共通に関する情報があれば教えて頂ければ大変嬉しく思います。 

又、幽斎養女の実父である一色左京大夫義次については全く詳細がわかりません。一色氏の一族だと思いますが、この人物の存在を知ることにより戦国時代の一色氏について知ることになります。こちらも情報提供をお願いしたいと思います。

 

記事:秋庭

 

参考文献

 『丹後・東海地方のことばと文化』

 『南北朝・室町期一色氏の権力構造』

 『京丹後市史資料編丹後国御檀家帳』

 『幽斎と信長』

 『細川三代 幽斎・三斎・忠利』

 講演レジメ「毛利元就親子三代のことば」

 その他