2017年2月28日火曜日

化身の武将。



第六天魔王 織田信長。
『日本耶蘇会年報』にあるルイス・フロイスの書簡によると、天正元年(1573)武田信玄への書状で信長が自身の事をそう記したのだという。語感と一般的な信長像、いわゆる革新的な、物好き、奇抜な、残酷なといったイメージとあいまって、よく見かける表現である。第六天魔王とは仏教用語であり、諸説あるが欲界の天の高位にあたる第六番目の天を指し、仏道修行の妨げをする存在、いわゆる仏敵、天魔だという。日本においては神道神話にも登場する。天魔の所業という表現は中世でもよく使われており、寺院の破壊や狼藉、放火や殺人といった悪行や、火災などの災害に対して使用されている。比喩として、あるいはその存在を信じてか。戦国武将では上杉謙信が佐竹義重とその家中が謙信に対して疑心を抱いている件について「誠々天魔之執行歟」と表現している例がある。(「上杉文書」)信長は多くの戦をしており、戦を仕掛ける時には相手に非があり、自身こそが正義であるという主張をしているケースが見られるが、そんな信長が実際に天魔を名乗ったのか疑問に思う。上杉謙信といえば我が毘沙門天の化身と語ったという逸話が有名。出典は『名将言行録』であり実際のところは不明であるが、深く毘沙門天を信奉した謙信のイメージに合った素敵な話で気に入っている。
う一人毘沙門天の化身と呼ばれた武将がいる。
その武将は山名宗全。応仁の乱西軍大将、山名氏最盛期の人物である。

山名氏の系図などには「面赤故世人赤入道云」と書かれており、『応仁記』でも赤入道の記述がみられる。宗全が赤ら顔であったという話は巷に流布されていたと思われる。
そんな宗全の事を歌った漢詩がある。

山名金吾鞍馬毘沙門化身鞍馬多門赤面顔利生接物人間現開方便門真實相業属修羅名属山山名宗全は鞍馬の毘沙門天の化身である。鞍馬の多聞天の容貌は赤面であり、その多門天が利益をもたらす為に人間に現れた。方便の門を開いて真実のあり方を示す。その業は修羅の道を歩み、その名は山に属す、即ち山名である。宗全と同時代に生きた一休宗純の『狂雲集』に書かれている歌。この歌を宗全の好評価とみるか、風刺とみるか。一休は宗全より十歳年上、一休に宗全との面識があったのか逸話以外では覚えが無いが、臨済禅を通しての接点があった可能性は高い。宗全は一休から毘沙門天と称されているが、自身も十二天を崇めており、宗全が鷲原寺に納めたという十二天像図には宗全の署名と花押があり、そこに毘沙門天の姿もある。毘沙門天とは無縁という訳では無かった。やがて応仁・文明の乱となり、一休はその有様を、修羅が血気盛んに怒声を振るわせ戦い、負けた時は頭脳が裂けその魂は永く彷徨うであろう。戦死した兵を弔うというような凄まじい表現をしている。
焼け野原と化した京を見て一休は「咸陽一火眼前原」と歌った。
かつて宗全を持ち上げた一休は何を思ったのであろうか。
『狂雲集』には他にも宗全についての漢詩が書かれている。
金吾除夜死山名従此黄泉幾路程太平天子東西穏九五青雲無客星
乱の最中、宗全が死んだ。黄泉路は幾ばくあるか。

東西の戦も止み、天子の世は穏やかになったが、人物はいなくなった。という意であろうか。西軍の山名宗全と対した東軍大将の細川勝元。
宗全が亡くなって程なく勝元も死去するが、
蓮如の法語、言行を伝える『空善記』によると、勝元は臨終の際に家臣の秋庭(元明)を呼んで「われ死すとも、小法師があり。故は愛宕にていのりもうけたる子なり…」「小法師があるほどに家はくるしかるまじきぞ」と言い残したという。
小法師とは九朗政元、半将軍と呼ばれた細川政元のことである。

『空善記』では政元を聖徳太子の化身であるという。「細川大信殿をばみな人申候。聖徳太子の化身と申す。そのゆへは観音とやはた八幡との申子にてあり。」臨終の際に勝元が言い残した言葉には、勝元夫人が愛宕詣でを続け、観音に祈り続けていたある夜、聖徳太子が夫人の枕元に現れて口に飛び込んだのだという。その後夫人は政元を身籠ったとある。
荒唐無稽であるが、蓮如とその外護者である政元との親密振りを物語る話。僧でありながら蓮如は政元を魚食で接待したという程。奇抜な話の多い政元は誕生の際でもその本領を発揮している。
蓮如・教団と政元の接近がその後の戦国時代での悲劇を生む一因であったのかも知れない。政元は本当に火種だ。

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