今回はそんな出石城下町が大火事に見舞われたという話。なんと町の三分の二程が消失してしまったという物凄い火災があったのです。
概要
出石大火災が起きたのは明治九年(一八七六)三月二十六日夕刻の事。
火事の原因は入佐町岩鼻に独居する旧藩卒が泥酔して鰯を焼いた火の不始末と強風が原因という。火災に見舞われた町は谷山、伊木、材木、東条、入佐、魚屋、内町、本町、宵田、鉄炮、川原、柳、田結庄、水上。
ザクっとですが城下町絵図に火災町区を炎で記してみました。城下町東南の大きい炎が出火場所。堀が城への延焼を防いだ事もわかります。
井戸淳戸長報告
当時の戸長の報告によると、延焼町数十四、全焼戸数九六六、半焼五、焼死五名、負傷者十四、神社・仏堂三九、土蔵二九十、部屋一八六、物置き、水車小屋九七、掲示場一、橋全焼三、半焼四。
水車や掲示場、橋が重要な施設で管理されていた事を物語っているのも興味深いです。
火災の規模に比べて死者が少なかったのがせめてもの救いでは。でも犠牲になられた方がいらっしゃったのです。
火伏稲荷神社(東条地区)
明治九年の大火の際、出火町近隣にあったにもかかわらず焼失を免れています。
以降、東条地区の方々を中心に神社は守られてきました。
「火を伏せる神社として」
国朝天女御稲荷様(魚屋地区)
以前も付近にありましたが、大火以降にここに移転され、火の神として祀られています。この稲荷の使いは女狐といいます。
影響
城下町の大部分が焼失した為、生活基盤を失った旧士族が出石離れをしたという。出石の三年後の人口は千人減の五七九七人でした。そして但馬の中心的役割を果たしていた出石に代わり豊岡市が代替機能を担った事も後の両町の差に繋がったようです。
また一説では出石城下の再建の為、急増した家屋建築の需要で木材が不足し、当時建てられた家は正面が立派で奥は見えないので省力化されたともいいます。
今回は出石大火についてでした。
参考文献『出石町史』第2巻 通史編下、他
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