2017年2月22日水曜日

赤松義雅の晴れ舞台


今回は籤により選ばれた将軍として有名な、室町幕府六代将軍足利義教に関する話。

応永三十五年(1428)正月十八日足利義持死去。
この日、前夜に八幡宮で引かれた籤の結果が明かされ、義持の弟である青蓮院義円が時期将軍に選ばれた。後の足利義教である。

翌日から将軍になるべく元服の手続きが始まる。
元服の儀といえば数日程度をイメージするが、義教の場合は選ばれて後、実に二年半もの年月をかけて一連の儀式が執り行われている。
十歳で青蓮院門跡に入った義円はこの時三十五歳、異例の高齢での将軍選出である。
義円が将軍になる為には環俗、任官、元服と多くの行事をこなす必要があった。
応永三十五年三月十二日。還俗、従五位左馬頭叙任、名を義宣と改める。
四月十一日、判始、乗馬始。
四月十四日、御沙汰始。御的始。従四位昇進。
更に元服迄の間に正長改元、後花園天皇擁立が行われている。
こうして正長二年(1429)三月九日、元服が行われた。義宣三十六歳。
面白いのは元服に至っても、義宣が烏帽子懸を用いて烏帽子を固定させなければならなかったという話。法体であった時から髪が生え揃うまでの時間が足りなかったという。
義教の将軍就任については『普廣院殿御元服記』に詳しい。
義宣に冠を着ける儀は管領畠山満家の一門より行われた。

加冠、畠山持国。
理髪、畠山義慶。
打乱役、畠山持幸。
泔坯、畠山持永。
時刻は亥刻、午後十時。元服の日時は陰陽師の阿陪有富が選定した。
更に護持僧による加持祈祷が行われている。
翌日からは大名、諸社からの祝儀が続き、その後も次々と将軍元服に関する儀式がこなされていく。

三月十五日、征夷大将軍宣下、参議・左中将昇進。
義宣は名を義教と改めた。
「名字義教ト改名、元義宣世志のふと被読成、不快之間被改云々」  (『看聞日記』正長二年三月十五日条)
三月二十九日、権大納言に昇進。
四月十五日、御判始。
八月四日、右近衛大将に昇進。
八月十七日、八幡社参始。

そして永享二年(1430)七月二十五日。
一連の儀式の締めくくりとも言うべき「大将御拝賀」が行われた。
この大将御拝賀は将軍をはじめとして、公卿、殿上人、大名、侍他供奉人等大勢が行列して室町殿から都の通りを経て参内するという大きな行事であった。

この時の様子は『普廣院殿御元服記』、『普廣院殿大将御拝賀雑事』、『満済准后記』などに詳しく書かれている。
この日は良く晴れた日であり、将軍は申の刻(午後三時頃)、公家、大名、官人等が蹲踞する中、出発した。こうした日取りは陰陽師が決めるものであった。
満済は行列進発の前に加持が行われたことも記している。義教は束帯姿で剣を帯びていた。
行列の先頭は侍所が務める。
この時の侍所は赤松満祐である。
義教の代になり満祐が侍所に任命されたわけであるが、大将御拝賀での重役を務めるには問題があった。
「侍所。帯甲冑、于時赤松左京大夫入道性具。依爲法躰斟酌。舎弟伊豫守義雅勤其役」 (『普廣院殿御元服記』)
満祐は出家して法体であり御拝賀の儀に支障がある為、弟である赤松義雅が代役を務めることとなったのだ。
郎従三十騎を連れた義雅は、浅黄糸鎧、金刀を帯び、重藤弓を握り、大中黒の矢を背負い、黒毛の馬に乗り、従者らが兜、床几等を持ち付き添った。
兵は皆、色毛鎧を着、兜や敷皮などは各々の従者が持ちこれに随った。
僕達は紺の直垂に銀薄で文を押したものを身に付けていた。
次に小侍所。狩衣姿の畠山持永が郎従十騎を連れて続く。

満済は路地に用意された桟敷で大将御拝賀の行列を見物したと書いている。
「悉以奇麗驚目了」であったという。
行列を見物した都の人々も、凛々しく、絢爛な武者達の姿を見てため息をついたことと思う。

 更に笠持十人、居飼四人、御厩舎人二行四人、一員三人が続き、殿上前駈三十四騎、地下前駈十騎、御随身番長、番頭八人、帯刀帯二十二人と続いて将軍の御車となる。
御車には御簾役、御沓役、御車副二名、御牛飼一名、副御牛飼四人、御雨皮持仕丁二人、御随身二人、御傘持、下﨟御随身五人、雑色六人、等が付いていた。

こうした詳細は安全上の事情から厳しく秘密にするべきものであるが、故実としてこれを記し残したとあるのも面白い。

後衛には侍十騎、官人五人、扈従公卿二十三人と供奉人が続いた。

そして後衛の目玉ともいうべき一騎打。大名一騎打といわれる名誉ある役である。
この時の一騎打には畠山持国、佐々木持光、富樫持春、土岐持益、斯波義淳がなっている。狩衣姿であった。

その後に義淳の郎等十騎、総奉行四人、更に童、調度懸、雑食四人、如木二人、中間四人、笠持、床木持が続いた。
大将御拝賀とはこれ程の行列を組むものであったのだ。

御拝賀の行列は萬里小路を北、二条を西、油小路を北、中御門に至って東、室町を北、近衛を東、東洞院を北と経て左衛門而陣に至った。
辻辻は大名により警護され、事前に路の清掃も行われたとある。

『満済准后記』には御拝賀の事前準備や根回しについての記事もある。
注目すべきは「大名一騎打」についての記事が幾度か出て来ること。

一色義貫が将軍御拝賀において、大名一騎打の最前の役が欲しいと申し出ていたことが書かれている。
義貫の祖父である一色詮範が義満の拝賀の際に大名一騎打最前を務めたので、今回もこの例に習って一色を一騎打最前にして欲しいというのだ。
義貫は山名時煕、赤松満政などにも働きかけていたようだが、一騎打最前は管領がつくという決まりであるので、今回の一騎打は最前が畠山、次が一色になるとして、義貫の申し出は通らなかった。
結局、今回の大名一騎打に一色の名前は無い。義貫は不服として御拝賀に参加していない。
「次座ニ罷成條不便儀也。且可爲家恥辱云々」 (『満済准后記』永享二年七月二十日条)

畠山の次座に甘んじることは義貫には我慢ならなかったのだ。
この御拝賀の直後、義貫は義教より不興を買っている。
大名一騎打はこれ程に大名にとって大変重要な役であった。

そして義雅はこのような大イベントの先頭を飾る栄誉の機会を得たのであった。
まさに義雅にとって人生の晴れ舞台である。

赤松義雅は後に義教から所領没収、嘉吉の乱で満祐とともに最期を遂げる幸薄い武将である。しかし彼が残した千代丸の子、政則により赤松は再興されていく。

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