2017年3月10日金曜日

亀王丸と義村 



永正八年三月五日に亀王丸、後の足利義晴が誕生した。
父は十一代将軍足利義澄、母は阿与(阿子)末の者と伝わる。義澄は日野永俊の娘と結婚したが四年後に離縁している。 永正五年父義澄は義尹、高国らに京より追われ、近江岡山の九里備前守を頼りここに滞在していた。 そのような流浪の中での誕生であったが、もう一人流浪の中で生まれた子がいた、亀王丸の兄、義維である。 この義維の生年は定かでは無く、義晴と同い年とする説から二歳年長であるとする説などがあるが、この頃の話は二人を混同しているものもありややこしい。
義澄は合戦の最中にあることから、亀王丸を播磨の赤松次郎(義村)に預けることとし、母阿与と共に播磨に送った。
亀王丸等は密かに近江を離れ、塩川種満その家人三十余輩と共に摂津、丹波の脇道を通り、三木越えで播州に入ったという。
一方、兄の義維は細川之持に預けられている。この時の別れが後に不幸を招こうとは、もとはと言えば細川政元が悪い。
次郎は赤松庶流七条家の出、義村、出家して性因。
赤松再興を果たした政則を義父と洞松院義母とする。 政則の息女松の婿となり、赤松惣領家の家督を継いだ。洞松院は細川勝元の娘、次郎の後見人、二人についてのエピソードも面白そうだが、これは別の機会に。
亀王丸が播磨に入ったのは次郎が赤松勝範を倒し、政則没後の混乱が落ち着いてきた頃であった。
永正九年六月、細川高国が摂津に下向、尼崎で洞松院と会談を行い、義尹と次郎の和睦をはかった。
『赤松傳記』にある「御國の御成敗は御前様めしさま御はからひにて、何事も御印判にておほせつけられ候」を思い出すが、 先年の船岡山の戦いに勝利した高国、一方次郎は破れた澄元に与していたので、そうした事情と細川家との縁を頼ったのだと思われる。
永正九年十一月、赤松次郎と義尹の関係が改善した為、浦上、別所等が次郎の官途、偏諱拝領の為に上洛。 次郎は兵部少輔となり、以降義村と名乗るようになる。 
翌十年二月、「若君様御合体之儀」義尹と亀王丸の和睦が成立した。 亀王丸、義村の名代として赤松在田式部少輔(忠長)が上洛。 亀王丸、義村からは其々太刀、馬が、忠長からも太刀、馬、銭千疋が進上された。
この場には盛んなりし細川高国と大内義興等がいたが、義村もまた短い最盛期を迎えつつあった。 永正十二年、義村は分国法を制定。
ところで亀王丸の置塩での生活はどうであったか。
置塩城、城下は政則期に築かれたとされるが、亀王丸が入る以前から冷泉為広、高雄尊朝、豊原統秋といった 文化人の出入があり、歌会も開かれていた。
特に冷泉為広は義村と親密であったようで何度も置塩に足を運んでおり、足利義澄から拝領した玉葉集を義村に譲っている。 義村も為広に目薬を届けるなど交流は深い。
在田忠長も為広に和歌の教えを請い、熱心に歌道を学んでいたようだ。
冷泉為広は義澄と昵懇であったので、義澄が京を追われ近江に出奔した時、難を恐れて帝の裁可も得ずに落髪して出家している。 義澄亡き後の支援者の一人が義村であったのかも知れない。
為広は和歌の授業料なども受け取っている。上月孫三郎の例では銭百疋と太刀。
そのような為広が置塩に滞在した際に、何度か歌会が開かれた。場所は赤松兵部少輔亭、飯川山城守亭、播州若公御所等である。
亀王丸は置塩で御所を持ち、幼いながらも歌会に参加している。播磨時代の義晴は和歌を学ぶなど教養を身に付けられる落ち着いた 環境で播磨時代を過ごしていたのだった。
そして恐らく、洞松院からも色々と話を聞かされていたことであろう、、、
しかし平和は長くは続かない。


永正十二年、義村は分国法「公事条々」を制定した。
公事の式日を決め、喧嘩は公儀の許可が必要なことなど、守護権力を強化させる作用を期待したものであった。
この中に「一 女房公事停止事」という条文がある。裁判に女性が介入することを禁止したのであるが、洞松院へのあてつけに見えないこともない。
義村は洞松院や浦上氏らの傀儡の当主として擁立された側面がある。その義村が自身の権力を強化する動きを見せた時、 面白くない支援者達はその梯子を支えることを止めてしまった、むしろ外そうとさえした。
永正十六年、浦上村宗が反旗を翻し、以前より燻っていた義村と村宗の対立は決定的となる。
十一月、義村は村宗退治の為置塩から出陣、数千騎の軍勢を率いて備前に向かった。村宗は三石城に立て籠り、赤松勢は福立寺に陣を張り、その後三石城まで軍勢を寄せ猛攻した。
『赤松傳記』では三石城を攻める赤松勢であったが、名城でなかなか落ちない。そうした中、備中の松田将監が三石城の後巻 に来るとの雑説が出た為、櫛橋則高が和睦を調え、十二月晦日義村は帰陣したとある。
「播州陣敗破、浦上勝利、和睦之由、去五日注進云々」『実隆公記』
浦上攻めは失敗した。
翌十七年三月、義村は浦上与力の粟井、中村の城を攻める為、美作に出陣。今度は途中白旗城に立ち寄り諸勢を加えて美作に入った。
四月には中村五朗左衛門の岩屋城を包囲、村宗も三石城を出て赤松勢に向かった。
村宗は計略をめぐらし、赤松勢の内より意替の衆を出すことに成功。赤松村秀の弟中務丞(村景)が浦上方に寝返る。
十月六日、寄せ手の陣が破られて小寺加賀守則職、以下数百人が討たれ、その他の者も伯耆、因幡に落ち行き、義村は置塩に逃げ帰った。
浦上攻めに惨敗した義村の権威は失墜し、隠居の声すら出始めていた。
十一月、義村御曹司(政村)を村宗に渡すこととなり、政村は室津に置かれた。政村八歳。
洞松院、松御料人は村宗に同心し、義村を捨てて室津に入る。
義村は入道して性因と名を改めた。
義村であった時代はあまりに短い、求心力を失い、義母と妻の離反、息子も人質に取られた。 しかし義村は諦めてはいない。赤松を継ぐ者は「諦める」を口にしてはならないのだ。 勝手に言ってるだけだけど、、、
十二月二十六日、夜中に義村は亀王丸と供に置塩を退き、明石の衣笠五朗左衛門館に入った。
翌十八年正月、義村は再起をはかる為、御着に出陣、亀王丸も陣の中にいた。
赤松下野村秀、広岡村宣を先陣に更に軍勢を進める。一方、浦上村宗は三石の軍勢を従えて室津まで進んできた。
浦上の計略によるものか二月に入り、広岡村宣が突然村宗に寝返り、大田の陣は破れ義村の兵は退却した。 共に先陣を任されていた赤松村秀は広岡と不戦の契約をしていたので、大田で軍を止めてしまった。
主力を失った義村は浦上との決戦を果たせないまま敗北する。
こうして三度目の浦上攻めも失敗に終わり、十一日夜、義村は亀王丸を連れ御着を出て玉泉寺に入った。
亀王丸はまだ義村の手の内にある、義村にまさかの逆転はあるのか。
『赤松傳記』『鵤荘引付』などから義村の戦を見てみたが、裏切りばかりで胸が張り裂けそうになる。 義村治世の播磨をもっと見たかった。


永正十八年四月、赤松性因(義村)は亀王丸と英賀の遊清院迄出て来た。
先の戦の後、性因と誓紙を交わした浦上村宗が呼び出したのだった。わずかな間にここまで立場が入れ替わっている。
ついに亀王丸は村宗の手に渡り、性因は揖西郡片島の長福寺に移された。もはや捕虜同然の扱いである。
村宗が亀王丸を手に入れた裏には細川高国がいた。 高国と浦上の申し合わせにより、亀王丸は六月に上洛する運びとなった。目的は公方になってもらう為である。
兄の義維は細川澄元に擁立され高国に対抗していたが、澄元が病死した為に上洛は果たせなかった。 将軍義種も高国と対立し、京を追われている。
高国は義種に代わる新将軍を擁立する必要があった。
亀王丸の将軍への道が開いた。
鷲尾隆康の日記である『二水記』永正十八年七月六日条に亀王丸上洛の記事がある。
「播州若君御上洛也、近江御所御息也、数年赤松兵部少輔奉養育了、当年御十才云々」
隆康は見物する為に二条辺りまで出掛けると、そこで亀王丸上洛の行列を見た。
「申刻許御上洛、御輿被上簾了」輿に乗っている人物は簾を上げている様子、御披露目というより 中の人物が都の街を見物したかったのかも知れない。
中の人物というのは当然亀王丸である。
輿の簾の下に見えた亀王丸を見た隆康の感想は、、、

「御容顔美麗也」

亀王丸は美少年であった。
隆康を始め、行列を見た都の人々も感嘆したことと思われる。
義村が大切に亀王丸を養育していた理由を、別に勘ぐりたくなるところでもあるが、この年頃の少年なら肌も瑞々しく、末期に描かれた義晴像とはまるで違ったことであろう。
行列の騎馬衆数十人、徒の者は数えきれない程であった。
京に入った亀王丸は岩栖院を仮の御所とした。
七月二十八日、亀王丸は従五位上に叙され、「晴」の名を帝より賜り、義晴と名乗った。
翌月八月九日、義晴涅歯。「義晴御歯黒美」『親孝日記』
義晴の周囲では祝いの声が上がった。この日、義晴を見た高国も義晴の美しさに見とれていたのかも知れない。 鉄漿をした人間や歯を見て美しく感じる為には何が必要なのか。
一方の性因について。
その後、性因は室津の浦上被官実佐寺所に移された、その扱いは囚人のようだったという。
四月に亀王丸を渡してから約半年、こうした生活を送っていたようである。
大永元年九月十七日の夜、菅野、花房、岩井弥六等大勢が押し込み、性因は殺害されてしまう。 しかし性因は大人しく討たれた訳では無い。
討手が乱入した際、性因は討たれまいと戦っている。岩井弥六の左手首を切り落とすなど奮戦したが「是程御働無比類候へ共、大勢不叶御果成候」ついに討ち果たされてしまった。
 性因は武芸の心得もあったようである。
同じ地で、同じ時を過ごした亀王丸と義村のその後はあまりにも対照的。 義村が幽閉され、討たれた頃、義晴は将軍としてまわりから持て囃されていた。 将軍となった義晴は義村のことを、どう思い出していたのであろうか。

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