2017年2月22日水曜日

武将の落とし物

昭和に法隆寺が大修理された際、心柱から一本の扇が発見された。
なんとこの扇は秀吉の物だという。秀吉が秀長を訪ねた時に法隆寺に立ち寄り、そこで柱の穴を覗き込んだ際にうっかり落としたものではないかと。
先日たまたま読んだ記事で真偽の程は定かではないが、なかなか興味を引く話ではある。
という訳で今回は落とし物。
秀吉の扇といえば亀井玆矩の話。
中国大返しの時、姫路での軍議で玆矩は秀吉から恩賞希望地を聞かれた。しかし望んでいた出雲は毛利と講和した為に絶望的である。秀吉は出雲以外の地を選べと言う。
ここでの玆矩の言葉がかっこいい。

「海内の地に於ける出雲を除く外、望む所なし。琉球国を賜はらば、伐ちて之を取らん」  (『道月餘影』)
これを聞いた秀吉は大いに壮なりと感じ入り、腰に挿していた金団扇に「六月八日 秀吉」「羽柴筑前守」「亀井琉球守殿」と著してこの扇を玆矩に与えた。
以降、玆矩は琉球守と称した。

玆矩を代表する有名な話。実際に「亀井流球守とのへ」と記された秀吉朱印状も残っている。

そんな有難い金団扇であったが、朝鮮役で李舜臣軍と海戦した際に遺失して朝鮮側に渡ってしまった。遠い戦場にまで持って行ったのか。

朝鮮側の史料『李忠武全書』にこの団扇の事が記されている。

「倭将船捜得金団扇一柄、送于臣處、而扇一面、中央書曰、六月八日秀吉著名、右邊書羽柴筑前守五字、左邊書亀井流求守殿六字、蔵于漆匣…」
先の姫路軍議の文言と一致している。国際的な落し物になってしまった。
ふと思ったが仮に秀吉直筆だとすれば、果たして秀吉がすらすらと漢字を書けたのか、秀吉直筆の文書は平仮名が多かった気がする。しかし書かせれば済む話ではある…真相や如何。


続いて竹中重利。

この人は竹中半兵衛(重治)の従兄弟にあたり、半兵衛の領地から知行を受けていたが、後に秀吉に仕え、関ヶ原合戦では黒田如水に誘われて東軍に与した功で豊後府内二万石を賜っている。
府内城下町整備などの内政に力を注ぐ一方、馬、鑓、鉄砲、剣術などの武技を家臣に奨励するなど武芸にも強い関心を持った人物であった。
重利は黒田如水親子との交誼も深い。

ある日、如水の饗応を受けた重利はそこで何本かある刀剣から好きなものを選べと言われた。重利は短刀を選んだ。
如水は何本も刀剣があるのに本当にそれで良いのかと不思議がったが、重利がそれで良いならとこの短刀を贈った。
後日、重利が京都へ鑑定に出してみると、その刀はなんと正宗であった。重利は大いに喜んだという。  (『豊府聞書』)

しかし事故が起きた!!
重利が西国に下向した時にこの正宗をうっかり海に落としてしまったのだ。
漁夫に探らせて正宗は無事取り上げられたという、重利も胸をなでおろしたことであろう。

『享保名物帳』によるとこの短刀は長八寸七分、不知代。
表忠に「横雲正宗」裏に光徳判と赤銘があったとされる。
本阿弥光徳は天正、慶長頃の目利。

この短刀は新古今和歌集三十七首、藤原家隆の
「霞たつすゑの松原ほのぼのと波にはなるゝ横雲の空」
という歌にちなんで「横雲正宗」と名付けられたという。 (『詳註刀剣名物帳』)


海に刀剣を落とした武将には大物もいる。

その名は足利尊氏。
建武政権から追討され、戦に敗れた尊氏が九州から再起を図ろうとした時の話。
「尊氏将軍九州進発之時、見乗御舟時、篠造之御太刀自御舟被取落、沈海底、曽我入海取出之、依其忠功、如此名乗…」  (『蔭凉軒日録』長享二年三月十六日条)

意気揚々と進発しようとした矢先、尊氏はうっかり篠造の太刀を海に沈めてしまったのだ。縁起でもない出来事だ。しかし部下達の不安は尊氏以上だったと思う。
この大将大丈夫かいなと。


この太刀は尊氏に従っていた曽我左衛門尉(師助)により海底から取り出され事なきを得た。
正宗、義経の弓と瀬戸内では物がよく落ちる。

この篠造の太刀は『享保名物帳』に「二ツ銘則宗」の名で紹介されている。
長二尺六寸八分、不知代。

尊氏以来、足利将軍家に代々伝わり、後に義昭より秀吉に進ぜられて愛宕山に奉納された。
『明徳記』の中でも「篠作と云御太刀をぞ佩かせ給たりける」と山名氏清を迎え討つ足利義満が篠造之太刀を佩いていたことが書かれている。
永禄の変など波乱続きの将軍家でよく残ったものと思う、その頃には既に宝物と化していて使用されず無事だったのか。将軍家の盛衰を見てきたまさに生き証人ともいうべき太刀である。手放した義昭はさぞ無念であっただろう。


最後は伊達政宗の落とし物。

「政宗公御落馬被成、御足ヲ被打折候、御養生候而御足ハ付候ヘトモ、御痛ニテ御出馬抔可被成躰ニ無之候故…」  (『伊達成實記』)
『伊達氏治家記録』によると天正十七年(1589)二月二十六日夜に米沢城下の谷地で、政宗が乗っていた馬が急に驚いた為に飛び降りたが、その際に足を折ったという。
政宗は随分痛がったようだ。


落とし物は落とし物でもこれは自身を落とすという話。

そういえば細川忠興も初めて甲冑を付けた際に腰掛けていた具足櫃が抜け落ちて、仰向けに転んでしまったという逸話があったが、やはり彼等はエピソードまで只者ではない

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