2017年2月28日火曜日

猫の武将。



普段は食事の時間以外、ツンと知らん顔をしている我が家の愛猫も、冬の寒さに耐えきれずに人の膝の上に乗りたがる。毛を膨らませて、聞き耳を立てながら丸くなっている姿は何とも可愛らしい。ついそのまま足が痛くなるまで読書などをして、一緒に過ごしたりする。猫が武将になったゲームが人気らしい。戦国時代の人々も猫とともに生活をしていたようで、武将と猫の話も割と多い。
井伊直孝と白猫、鍋島化け猫騒動、甲斐宗運と猫と茶臼剣、最上義光の膳を食べた猫、秀吉の愛猫など。
小田氏治にいたっては肖像画に猫まで一緒に描かれている。猫好きここに極まれり。絵師に描かせた際に一緒にいたのか…
猫は家に棲むという。捨てられても、追い出されても、また家に戻ってきたという話もある。氏治の生涯も似たものがあるような気がする。
戦国時代あたりでは猫は繋がれて飼われるケースが多く、毛利輝元や板倉勝重らが猫を繋ぐことを禁止する触れを出している。
猫は愛玩動物として飼われただけでなく、古代に猫が輸入された理由が鼠害対策であったといわれるように、鼠狩の益獣としても活躍してきた。勝重の禁制により鼠害も減ったのだという。
我が家にいた猫もよく鼠や雀、蝉などを捕まえてきていたのを思い出した。

猫が愛玩や害獣対策以外に利用された例もある。
「ナラ中ネコ、ニワ鳥安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中ヘ方々隠了、タカノエノ用云々」
(『多門院日記』天正五年五月七日条)
信長が奈良中の猫や鶏を徴集しに来るので、人々が取られまいと猫達を僧坊にに隠したというのだ。集める理由は鷹の餌にする為だという。
猫を餌にするなどとやはり信長は天魔だ。猫を護ろうとした奈良の人達もほほえましい。

の餌にされたのは猫や鶏だけではない。

「山名一党多好田猟、踏損田畠、農民又愁傷之、捕人々之犬、終日射犬追物、或殺犬、人食之、鷹養之汚穢不浄充満者歟、更難叶神慮哉、管領被官人堅加制止、不及鷹飼云々、於食犬者、被官人等元来興盛歟、主人不知之謂歟」
(『建内記』嘉吉三年五月二十三日条)

山名の一党が農民達の田畑を荒らし、犬を掠奪して犬追物や鷹の餌にしたという。更に犬は精力が付く為、人も犬を食べたとある。
山名氏の横暴を示す際にも使われる史料でもあるが、掠奪はともかく食犬は珍しくない習慣だった。当時の遺跡から出土した犬の骨には食用にされたとみられる解体痕が見つかった例もある。ルイス・フロイスや貞成親王なども薬として犬肉を食べるということを書いている他、食犬は現代に至るまでその例は多い。

ちなみに山名氏の家伝書『山名犬追物記』には「ノガレ犬」という作法があり、犬追物に使う最初の一匹はわざと矢を外して逃がすのだという。ささやかな情けだが。

最後に。
我が家には「猫神神社守護」と書かれたお札がある。鹿児島の仙厳園にある猫神神社のもので、御祭神は猫神。


神社の由来には、島津義弘が秀吉の朝鮮出兵の際に七匹の猫を連れて行ったとある。猫の瞳孔の開き具合で時を知る為だったという。
猫時計、なんと素敵な。
残念ながら七匹の猫のうち五匹は戦死してしまったが、二匹が無事生還して、時の神様として祀られることとなった。島津軍は猫まで勇ましい。


生還したニ匹の猫の名はヤスとミケ。まさに猫の武将である。

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