2017年3月22日水曜日

戦国時代の丹後 



 中世から戦国時代あたりで丹後ゆかりの人物は、と聞かれると、細川ガラシャ、幽斎、忠興と先ず細川の名があがる。また「天橋立図」を描いた雪舟、静御前、稲富一夢をあげる方、久美浜あたりでは松井康之の名をあげる方もおられる。そして丹後を語るに忘れてはならないのが丹後一色氏である。地元の方はゆかりの伝承もありご存知の方も多い。また細川好きの方も一色五郎、義有といった名をあげる方もおられると思うが、やはり一色氏の知名度は低い。一色氏の活躍が地味であり、また世間に広まるような伝承も少ないことから人気不足になった感は否めない。決定的なのが戦国時代の一色氏に関する史料があまりに無い為、その実態がわからないこと。

 丹後一色氏は一色公深を始祖とし、その孫にあたる一色範光が貞治五年(一三六六)に若狭守護に補任され、その子詮範に続く。明徳の乱で山名氏が没落すると、山名氏の分国であった丹後は一色氏が獲得し、明徳三年(一三九二)詮範の嫡子満範が入国した。以降約一九十年にわたって一色氏の丹後支配が続いた。
 一色氏は丹後守護であったが、丹後の守護関係文書、荘園関係の文書は非常に少なく、戦国時代においては、そうした史料のみならず丹後に関連するあらゆる史料が見当たらない。今谷明先生はこの時期の丹後を「闕史時代」と表現されている。
 永正十六年(一五二九)二月に将軍が一色義清に年始祝儀返礼の内書を遣わした『御内書案』の記録を最後に一色氏に関する史料は途絶え、大永、享禄、天文、弘治、永禄と前後五十年にわたってその動向がわからなくなっている。永禄の史料においても『言継卿記』で守護代延永氏の消息が一行あるのみで、元亀では『日御碕神社文書』に但馬丹後の賊船数百艘が神社や近隣の村で略奪をしたという記録がある程度という有様である。この『日御碕神社文書』にしても、私にはどちらかと言えば尼子再興軍や但馬の動向を探る史料という印象が強い。
 天正あたりになると信長関係の史料で一色氏の動向が垣間見られるが、丹後の状況を知るには情報が乏し過ぎる。細川藤孝が丹後に入り、一色氏は織田に下った後滅亡するが、この辺りの一色氏についても『細川家記』や『一色軍記』といった記録から推測するしかなく、一次史料では確認がとれない。

 上記の一色氏の状況は今谷明先生の「室町期・戦国期の丹後守護と土豪」を主な参考として書いた。現在は『宮津市史 史料編』をはじめとして丹後の史料の整理も進んでいるが、やはり一色氏に関する史料はあまりに少な過ぎる。
 この時期の丹後の状況を知る重要な史料が『丹後国御檀家帳』である。伊勢の御師が記した伊勢講参加者達の名簿であり、丹後一国の規模でまとめられている為、ここから一色氏家臣団の構成など丹後の支配状況を知る貴重な史料とされる。戦国期の一色氏の状況はこの史料に頼るところが大きい。
 丹後一色氏については今谷明先生、河村昭一先生等の研究や『宮津市史』といった自治体史などが参考になる。
 以前、丹後の歴史を勉強されている方とお話をする機会があった。何故ここまで一色氏の記録が残っていないかその理由すら不明だという。当時確実に一色氏と接点のあった寺社ですら文書が見当たらない。調査が進めば、木簡や刻文といった史料から手掛かりを得られるかも知れないので今後の進展に期待している。一色氏を調べるにあたっては、やはり周辺国や中央の史料や動向から探っていくべきだろうと。


 丹後の東隣国の若狭と丹後は度々争っている。若狭武田氏は武田信栄が一色義貫を殺害し、その功績により、将軍足利義教から一色氏の分国であった若狭を与えられたことから始まっているという因縁もあるが、守護代、国人らの動向も絡み合ってその事情は複雑なものとなっている。
 南隣国の丹波は細川氏の分国であるが、細川氏は丹後にも所領を有しており、丹後における武家関係領田積の一割近くが細川氏によって占められていたとみられている。丹波は丹後攻めの橋頭保のような役割を果たしており、細川氏の丹後攻めや織田の丹後攻めなど、度々丹波から丹後への侵攻が行われている。
 西の隣国である但馬には山名氏があった。一色氏と山名氏の間には婚姻関係が認められる。山名氏、但馬側の史料からみても丹後との争乱はあっても深刻なものではなく、比較的良好な関係が続いていたと思われる。但馬側にとってもこの時期、隣国丹後に関する史料は殆ど見られない。


 丹後は史料に制約があるだけで、誰もいなかった、何もなかったという訳では無い。丹後国内には多くの中世城館跡が見られ、その数は約五百八十箇所以上にのぼるとみられる。私も丹後の山城を訪れることがあるが、他所と同様に堀切、虎口、土塁、横矢懸りの工夫といった技巧が凝らされた見応えのある山城があり、村人や地侍クラスの小規模なものから守護代クラスの大規模な山城もみられ、戦乱の時代の丹後で人々が生きてきた証を見ることが出来る。


 今回は戦国時代の丹後に関する史料が少ないことをテーマにしたが、とりとめのない記事になってしまい、また勉強不足の為、挙げ損なった重要な史料や課題があると思う。マイナーな一色氏であるが、ネット上では多くの方が一色氏に関する記事を熱心に書かれており非常に参考になっている。真贋の見極めも必要ながら、手掛かりが多いことは有りがたい。個人的には山名氏についてもっと深く知りたいと思い、周辺の歴史も併せて考える必要があることから一色氏について調べたいと考えた次第です。
 最期に、生意気な事を書きましたが、素人の戯言、間違いや思い込みもあると思います。どうかご容赦願いますとともに、ご指摘、参考になる資料などがありましたらご教授をお願いします。



参考 『守護領国支配機構の研究』、『宮津市史 通史編 上巻』、『宮津市史 史料編 第一巻』、『南北朝・室町期一色氏の権力構造』、『出雲尼子史料集』、『京都府中世城館跡調査報告書 第一冊─丹後編─』、『図説 京丹後市の歴史』他

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