2017年2月24日金曜日

大将は後方に。

武士。つわもの、もののふ、さむらいといった言葉で表現されることもある。
「つわもの」や「もの」は武器の意味でもあり、これを扱っていた者達に対してもそう呼ばれるようになったのだという。今回はそんな武士の大事な仕事である合戦の話。合戦は兵と武器でもって相手の戦力を削ぎ、戦意を失わせて勝利を得る。合戦で勝利する要素は兵の多寡、立地、気象条件、運用と多岐にわたるが、もっとも効率的に勝利を得る方法が敵の大将を討つことであった。将棋でもチェスでも王を詰めれば勝ち。今川義元や陶晴賢等がその実例である。強大な勢力を誇った織田軍団ですら信長を失った後は機能不全に陥り、そのお陰で追い詰められていた各地の戦国大名達もその命運を保っている。合戦においては大将を守る事が最重要であった為、大将は城や陣の奥深い場所で、近習達に囲まれてその身の安全を確保していた。弓鉄砲礫が飛び交い、槍で突かれ、武装した兵や馬に衝かれる最前線からは一定の距離、防御施設による隔たりがあった。
朝倉宗滴は「合戦ノ時武者奉行タル仁諸勢ノ跡ニ居タルハ悪候、先立タルカ本ニテ候」と合戦における武者奉行の心構えを説いている。 (『朝倉宗滴話記』)
宗滴曰く、武者奉行が最前線にいなければ、兵達が手柄を見せる為に大将のいる後方まで下がってしまい手薄になるので良くない。敵に手薄になった隙をつかれると負けてしまう。更にここで大将が退却せずに、踏ん張れば討ち死する危険すらある。
合戦の際、大将が実際の戦闘が行われている場所から距離を置いていたことが判る。戦場の体験から事例や心構えを語る宗滴の話はリアリティがあり面白い。
地侍や国人クラスの武将達は大規模な兵を持つことが出来ず、あるいは大名の指揮下にあったので最前線で自身が戦う事も多く、負傷、討ち死することも多かったが、守護、戦国大名ともなると最前線に出るのも稀で、負け戦であろうとも余程のことがない限り討ち死などはしなかった。討ち死した大名といえば今川義元、龍造寺隆信、相良義陽、斎藤道三あたりが思い浮かぶが、大勢は出てこない…
しかし大名自身が自らを危険に晒す戦闘行為をしたという記録がある。
有名なところでは上杉謙信。
永禄四年(1561)に武田信玄との間で行われた川中島合戦に関しての近衛前久の謙信への書状。

「今度於信州表、対晴信遂一戦、被得大利、八千余被討捕候事、珎重之大慶候、雖不珎義候、自身被及太刀打段、無比類次第、天下之名誉候…」。(『歴代古案』)

謙信が自ら太刀打ちに及んだことが記されており、
信玄との一騎打ちの根拠としても出される史料。どのように前久に伝わったのかはわからないが、信玄との合戦における勝利の報とあわせて謙信の太刀打が絶賛されている。謙信にとっては普通の事だというのが恐ろしい。
明応二年(1493)二月、足利義材は畠山義豊を討つ為に河内に出陣し、畠山政長、斯波、武田、一色、赤松といった諸大名がこれに従った。この戦の最中の四月に明応の政変が起き、細川政元についた赤松政則は逆に義材、政長と対することとなった。翌月の閏四月二十二日に行われた堺合戦で政則は畠山政長方の軍勢と戦っている。
「昨日廿二卯刻、根来衆為始紀河両国之勢一万計乎堺隣郷向村幷近辺之山々陣取候、左京兆自身打出、数刻及合戦候、同申刻敵悉切散、大得勝利候…」 (『蔭凉軒日録』閏四月二十四日条「上月則武書状」)

政則が白兵戦を挑んだとまでは言い切れないが「自身打出」という表現をしてまで、この合戦の模様を記している点が気になる。他の大名にはこのような表現がされていないところを見ると、政則のとった行動は目立ったものであったのかも知れない。政則はこの三月に政元の姉(又は妹)の洞松院を娶っている。更にこの頃、政元に所領安堵を認めてもらうよう家臣を通して申し出ている。

政則はこの合戦で武功をあげて政元の信頼を得る為にも、自身を危険に晒してまで、その姿勢を見せなければならなかったのだ。

政則は刀匠として自身が作刀した刀剣を家臣等にも与えていることが知られているが、斯波氏に仕えた尾張下四郡守護代織田敏定にも自作の刀剣を贈っている。
その銘には
表「為織田大和守藤原敏定
  兵部少輔源朝臣政則作」
裏「長享三年八月十六日」
とある。
赤松政則と織田敏定は朝倉氏を巡る交渉や近江、河内攻めなどを通じて誼を通じており、特に赤松被官である浦上則宗と敏定は頻繁に接触している。そうした関係から刀を贈られたと思われるが、この敏定の肖像画は細身で上品に描かれている政則とは対照的に、ふっくらとした野性的な雰囲気すらある武人として描かれている。印象的なのが右目を瞑った姿であること。

「某歳、軍于州之清州、為賊所射、一目失之、不抜其箭、以攻以戦、賊乞降而退」(『補庵京華外集上』「織田敏定寿像讃」)

この賛は文明十年に織田敏広が清州に拠る敏定を攻めた際のことが書かれているとされる。合戦の最中、敏広勢から射られた矢が敏定の目に刺さったが、敏定は抜かずにそのまま戦い続けたのだという。
なんとも壮絶な守護代クラスの最前線の戦いである。

赤松政則と宿敵関係にあった山名宗全。その父である時熈も明徳の乱の際に勇猛果敢に戦っている。
『明徳記』の京都市中、赤松勢との戦闘を終えた氏清勢が休息をしているところに僅かな馬廻りで突撃をかける時熈の場面。
「時熈よき所よと見てんげれば、二条の大路へ打出て、奥州の兵大勢にて控えたる真中へ懸入て、一文字に裏へわてとをり、取て返して一揉々て、又十文字にかけ破て、二条へさとかけいでたれば、五十三騎の兵も主従九騎に成にけり」
氏清勢に突撃を繰り返した時熈は従う兵を次々と失い、自身も追い込まれ絶体絶命の危機に陥ったが、垣屋と滑良が救援に入り、彼らの討ち死と引き換えに虎口の死を逃れることが出来たという。
軍記物ではあるが『明徳記』は乱の翌年または翌々年に書かれたとされる史料でもある。細かい描写は脚色だろうが、時熈と氏清ともに果ててもおかしくない激闘であった話が伝わったからこそ、書かれた場面であると思う。山名氏も一族滅亡の瀬戸際を経験している。この内野合戦で守護大名氏清は討ち死しているが、赤松則祐の子である満則、持則も氏清の軍勢と戦って討ち死している。
重責を担っている大将は迂闊に身を危険に晒してはならない。

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