2021年3月3日水曜日

丹後の言葉

 先日丹後の史跡を散策した際、出会ったご年配の地元の方と会話をする機会があった。その方が話される丹後弁は適当な表現かはわからないが、この地で長年暮らした方ならではの、自然で美しい丹後弁、耳に残るやさしい言葉だった。帰宅後も丹後弁のことが気になり少し調べてみることとした。

 

丹後弁の概要を理解するには言い回しを知るのが手早い。

何点か挙げてみると「えりゃー」「うみゃあ」「にゃー」「かまう」「ようけ」「わや」「ほうだなー」「おみゃー」といった言葉がある。有名な話ではあるがこれらの言い回しは東海地方、特に尾張弁と共通するものがあるのだという。共通点があるという話なので全く同じであるとの誤解がないよう。

丹後地方の方言についての研究では『丹後・東海地方のことばと文化』という調査報告書が京丹後市教育委員会より発行されており大変わかりやすい。今回の記事は多くをこの報告書に頼らせて頂いた。

 

 丹後地方でも方言は地域ごとに特徴を持つ。宮津市東部や舞鶴市は京阪式のアクセントで話し、宮津市西部、伊根町、与謝野町、京丹後市は東京式アクセントと、大きく二分される。京阪式は雑に説明すると所謂関西弁や京言葉に近く、東京式はここでは山陰地方の方言グループに属すると言えるという。市町の位置関係がわかり難い方には、丹後半島より東側が京阪式、丹後半島以西が東京・山陰式と感覚的に理解して頂いても良いと思う。更に丹後西端の久美浜は但馬方言にも近い特徴を持っているのだとする。

個人的な感覚でも福知山や舞鶴の方の話し方は「せやさかい」などの言い回しや発音など関西弁だな、少し違うなと感じることが多く、逆に久美浜の方は近しいものがあるように思う。

 

 東海地方の言葉はその言い回しを耳にした経験が少ないが、愛知県の中でも尾張弁は西日本的、三河弁は東日本的との指摘があるという。両者は兄弟言葉として注目されてきたが、その共通点を見ていく。位置関係では尾張弁と丹後弁は共に京阪地区方言の周辺、東西両端に位置するという共通性を持つ。

 

音声・音韻面にみられる類似性としては、二重母音の拗音化の共通がある(きゃきゅきょ…)。先に例を挙げた「えらい」が「えりゃー」にや、「赤い」が「あきゃー」がある。

音の変化の法則性の共通点を持の例には「ei」の転呼「おまえさん」から「おまいさん」、「u+i」の二重母音を含む言葉例「さむい」が「さみー、さびー」をはじめとした例、「無くなる」を「のーなる」のような長音化の例、「で」で理由や念押しを示す例「今日は雨だで」「これは嫌ですで」や「明日は来るんやで」など。こうした言葉の説明は大量の事例説明を必要とする為、自分のレベルでは把握もまとめる事出来ないので、この程度にしておく。

ちなみに柳田国男の方言周圏論、所謂「かたつむり」で説明すると丹後、尾張は「でんでんむし」系の地域となる。

 

両方言にみられる類似性は音声、音韻面、文法面にしても平安時代以降にみられる言語事象が殆どであるという。つまり、方言の共通化を考えるにあたり、平安以降の丹後と東海地方との関係性を調べる必要がある。しかし平安以降で尾張丹後間における集団的な人々の移動の形跡はなく、直接的な関係は推測し難いとされている。偶然に似たような言葉が使われるようになったのだろうか。

 

『丹後・東海地方のことばと文化』の記事を引用しながら丹後弁について述べてきたが、丹後と東海の中世期における共通点として、室町時代一色氏の分国であった点が挙げられる。

丹後は天正期の一色氏滅亡までその分国であったことが知られる。東海に於いては尾張智多郡、海東郡、三河国渥美郡が一色氏の分郡であった。

河村昭一氏によると、一色氏の智多郡支配は守護代、郡代にあたる職階を置かない一色氏の分国支配体制においては特殊な例であり、守護から直接、御賀本氏、倉江氏といった在地の者、小郡代的地位の者に下達するシステムを取っていたのだという。『愛知県史』では守護又代として延永氏系、遠藤氏系を不確定ながら挙げている。両者は丹後守護代でもある。

果たしてこうした一色氏の分国支配期に方言の丹後への移動があったのだろうか。やはり時代の支配者により方言や多数の人々の移動があったとは考え難いし、他国においてもそれが一般的であったという例は知らない。

 

他には畿内を支配した東海出身の織田、豊臣により東海方言が中央から地方に広まったとの説もあるが、これも納得し難い。

 

 丹後と東海を結ぶ線でもう一点挙げたい。『丹後国御檀家帳』である。中世丹後に於いては伊勢講が盛んであり、有力国人等もこの伊勢講を熱心に支援していた。田中純子氏は文亀・永正年間(150121)の丹後内乱以降、守護一色氏や石川氏、伊賀氏、小倉氏による三奉行体制では丹後国の突出した勢力を抑える事が出来ずにいて、丹後国を一国のまとまりとして保持しようとしたバランス維持システムに伊勢講、すなわち『御檀家帳』をその装置に組み込もうとしたとしている。

これから見ると伊勢の御師、伊勢講を通じて伊勢、東海地方との交流があった事は確実であるが、方言の共有とまではいかないだろう。

 

 方言に関する話が丹後にある。

中院通勝は京の公家である。天正八年(1580)六月に宮女の件で勅勘を被り逐電し、丹後田辺城の細川幽斎を頼った。丹後滞在期に通勝は入道し、也足軒素然と称した。その間に幽斎との親交を深め、歌道の師、幽斎より古近伝授を受けている。また幽斎の娘を夫人として、孝以、通村らを儲け、丹後で育てているが、この幽斎の娘は養女で一色左京大夫義次の娘である。

慶長四年(1599)に勅免を得て、十九年振りに京に帰ったが、舞鶴で生まれ育った通勝の子、通村らは京に戻った後も京都弁が話せず丹後弁のままだったという。まさに訛りはお国の手形である。そしてこの話は当時京と丹後で言葉が違っていたということを示している。

後に通勝は田辺城に籠城していた幽斎を諭す勅使の一人として田辺城に赴いている。

 

中世の方言といえば、フォロワーさんに教えて頂いた情報ではあるが、毛利氏においても方言の使用が認められるのだという。例を挙げると「きょくる」は人をまともに相手にせず、問題をはぐらかして言う意、「ざまく」は対象が目に余るほど雑なさまである意、「大儀がる」は骨の折れることを嫌がる、「てこ、てこをする」は人の手伝いをする、「ねばくち」は口が重いこと、「ひやうろく」は一人前の成人としてきちんと事をなすことができない人の意など。また『雑兵物語』は上州言葉が見られるのだという。

 

中世における丹後と東海の接点を見てきたが、方言の共通についての有力な手掛かりはわからなかった。アンテナを張り続けていれば、思わぬ分野からそのヒントがあるかも知れない。

 

追記 丹後と東海の方言共通に関する情報があれば教えて頂ければ大変嬉しく思います。 

又、幽斎養女の実父である一色左京大夫義次については全く詳細がわかりません。一色氏の一族だと思いますが、この人物の存在を知ることにより戦国時代の一色氏について知ることになります。こちらも情報提供をお願いしたいと思います。

 

記事:秋庭

 

参考文献

 『丹後・東海地方のことばと文化』

 『南北朝・室町期一色氏の権力構造』

 『京丹後市史資料編丹後国御檀家帳』

 『幽斎と信長』

 『細川三代 幽斎・三斎・忠利』

 講演レジメ「毛利元就親子三代のことば」

 その他

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