2017年3月10日金曜日

肖像画の話

土佐光茂が描いた足利義晴の肖像画。
 検索をすればすぐに目にする事が出来る便利な時代になったものだが、 この義晴像を始めて見た人は、その異様な雰囲気に一瞬戸惑うかも知れない。
義晴の目は窪み、焦点が合っておらず、髪は痩せ、その顔からは生気が感じられない。
それもそのはずで、この肖像画は義晴が病没する直前に描かれたものであるからだ。
幼い頃から最期に至る迄の義晴と光茂の長い関係を思いながらこの絵を見ると、 やつれ果てた義晴を見た光茂の気持ちまで考えさせられてしまう。
今回は肖像画について。
肖像とはある人の顔、姿をうつしとった絵、写真、彫刻の像、容貌が相似る様をいう。
像主の生存中に描かれたものを寿像、没後に描かれたものを遺像と呼び、 中世の絵師達は像主と対看しながら、あるいは像主の姿を思い出し、 また記憶のあった者から特徴を聞きながら、資料を参考にしながらと様々な方法で肖像画を描いた。
描かれた肖像画は写実、記録として、遺影として、そして礼拝の対象として使用された。
例をあげると、足利家では尊氏を始め歴代将軍の肖像画が遺影として葬儀、周忌の場で使用されている。 
徳川家康、豊臣秀吉、武田信玄像などは神格化された例だが、藤堂高虎もその一人。
江戸時代、藤堂藩では家臣達が高虎の肖像画を家に持っており、正月や高虎命日の毎月五日に礼拝を行っていた。
高虎に限らず、大なり小なり藩祖となった多くの戦国武将達の肖像画が残り、神格化されている。 この辺りは御家の事情も色々ありと話は簡単ではなさそうだが。
博物館や資料館を巡って、憧れの人物の肖像画を見た感激は格別。 これは単に絵画の出来に対してくるものだけではない。

 肖像画は像主の依頼によって描かれた。
依頼を受けた絵師は依頼主の面前で容貌をスケッチして下書を描く。
そして絵師が依頼主にその下書を見せて伺いを立て、満足か否かを判断してもらう。
満足するかどうかは依頼主に懸かっており、何枚か描き直しをして、ようやく合格したという。
肖像画とはいえ、当時はそれ程の写実性は要求されなかった、必ずしも似せるとは限らず、むしろ理想像といったものの方が多い。
肖像画は依頼主の意向に沿うように描かれたものであったからだ。
中世近世肖像画が他の風景画や絵巻などと異なるのは、絵師が自身の作品であるのに構想を練る事が出来ない、自由に出来ない点がある。
依頼主の意に沿った例では、両目を描かれた伊達正宗が代表例であるが、室町時代の例でいえば足利義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)がある。
この像は義輝の十三回忌及び、追善供養の為に作られた遺像で土佐光吉作、依頼主は義輝の妻、養春院とされ、 生前の義晴を描いた下書を元に作られたという。
京都市立芸術大学芸術資料館所蔵の土佐光吉の作品に、生前の足利義輝を描いたと思われる下絵がある。 作者は源弐、後の土佐光吉。
この義輝は武人らしい凛々しい顔と特徴ある剛毛の髭の他に、顔中に斑点が描かれていいる。
疱瘡の跡と見られるが、先の足利義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)にはそれが見られない。養春院は追善供養をするにあたり、理想の義輝像を掲げようとしたのだ。
一方、足利義政は肖像画を飽くまでも似せるよう描かせたとも言われている。
土佐光信が描いた義政の肖像画は衣冠姿、緋扇を持ち、上げ畳に端座しており、清潔感のある落ち着いた 容貌で描かれている。
この元絵は義政の生前に描かれたものと考えられているが、この絵の特徴に周囲の環境が 描かれていることがあげられ、上げ畳に座った義政の背後には水墨山水図の襖が詳細に描かれている。
そして面白いのは義政の前に鏡台が置かれていること。
恐らく義政は鏡に移る自身の姿と光信が描いている肖像画とを見比べて指図していたとも思われる。
余はもそっと鼻は高いとか、扇の持ち方はこの方が良いであろうとか、義政は五月蠅かったのか。光信がやりにくいと閉口している姿を思わず想像してしまう。
話を戻す。
何度も描き直し合格した下絵を紙形(第一紙形)とし、これを更に整えて直した第二紙形を像主に見せる。
これが了承されれば、この紙形をもとにようやく本画の制作に入る事が出来る。
紙形は肖像画のベースとなるべき下絵である。 これが有る事で何枚もの同じ肖像画の制作が可能となり、時代が下っても、また絵師が変わっても同様の肖像画が描けるようになる。 またこうした下書は門人や流派の画技練習の素材にもなった。
紙形を元に、素材が薄い和紙や絹などの場合は透かして写し、それが出来ないものは念紙を使って図柄を転写し、本画の制作に入る。
こうした描き直しの段階で御役御免となった絵師達もいた。
亀泉集証は自身の寿像制作を狩野正信に依頼したが、紙形を何度か描き直させたが気に入らず、土佐行定に依頼相手を 変更している。
それでも意に沿わず、今度は窪田藤兵衛尉に依頼したがやはり気に入らない。
結局、狩野正信に依頼を戻しようやく完成したという。
交替させられた絵師達はいずれも名手とされる腕前。
「狩野法橋持予陋質紙形数枚来、以一ケ愜衆心定心」『蔭涼軒日録』
 狩野正信は紙形を何枚か描き、その数枚の紙形から本画に使用するものを選ぶわけだが、ここでは多数決で本画に使用する紙形が選ばれている。 このように紙形が何枚も描かれた例もあり、肖像画の数以上に紙形があったはずだが、現在まで紙形が残るのは珍しい。

そのような中で有名人の紙形が残っている。
紙形に描かれた人物は三条西実隆。
口髭と顎鬚を生やし、大きな瞳が印象的で穏やかそうな人物に見える。 こちらも検索すれば直ぐに見つけることが出来る。
実隆の功績は余りに大きい、現在に室町の生き生きとした姿が伝わっているのはこの人のおかげとも 言える、おまけにその姿まで残してくれているとは感謝感謝。
実隆も先の亀泉に劣らず、自身の肖像画に対しては厳しく絵師に接している。
「土佐刑部少輔来、北野縁起絵事相談之、又愚拙肖像紙形令写之、十分不似、比興也」『実隆公記』
義政といい実隆といい、光信も苦笑したことと思う。
 絵師も大変だったのだ。

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