2017年3月10日金曜日

平和のかけ橋


文明六年(1474)四月、応仁の乱の只中のこと。京の街に橋がかけられた。
この橋は特別な意味を持っていた。

京を焼け野原にした大乱ももう七年以上続き、
前年の文明五年三月に山名宗全が死去、続く五月に細川勝元も死去し、両軍とも当初の二人の大将を既に失っている。厭戦の気運が広がり、講和の話が持ち上がった。
講和の話は以前にもあったが実現していない。ここにきてようやく宗全の嫡孫政豊と、勝元の嫡子聡明丸(政元)との間で和睦が成立したのである。
この橋はその証としてかけられたもので、橋の一方はは西軍の陣地、もう一方は東軍の陣地に通じていた。

「已去夕會云々、仍懸橋自他人々往反云々、凡大慶歟」 『親長卿記』文明六年四月三日条
「山名細川和輿對面、天下亂且無爲」 『大乗院日記目録』文明六年四月三日条
この夜、垣屋、太田垣、田公、佐々木、塩冶ら山名被官の五人が馬を引かせて細川邸に礼を述べに出向き、もう一方の細川方からも安富以下五人が馬を引いて山名邸に礼を述べに出向いた。
更に聡明丸母子が山名邸に出向き、酒宴も開かれた。これは凄い。

この和睦は年始頃から東西大名間で持ちあがり、山名、細川被官達の申し合わせと、政豊の譲歩により実現に漕ぎつけたものである
翌日、政豊は和睦成立の旨を畠山、土岐、大内、一色など諸大名に使いを出して報せている。

四日には早くも東軍側から北野天満宮に、山名陣からも誓願寺に参詣する人々があらわれた。
北野天満宮は乱以降に路が途絶え、人々は長く参詣出来ずにいたが、六日にようやく北野天満宮への道が通じ、自由な往来が可能となった。
また西軍方にある下京の商人達が東軍陣地にやってきて商売をするなど、太平の訪れを思わせる風景が見られるようになった。目出たい。

ところで道が途絶えた状況とは一体どのようなものであったのか。
当時の京の市街北部には南北に堀川、小川が流れており、これらの川が東西両陣の境界となっていた。はたしてこの川は両軍を隔てる程の役割を持っていたのか。

堀川は平安京造営時に計画整備された川の一つで、自然に流れていた川を改修して運河とし、北山の木材などの物資の運輸や、貴族庭園への引水の水源として利用されてきた。
『応仁記』では戦闘の際、堀川に架かる一条戻橋や高岸から兵達が転落して多数の死傷者が出たとある。
堀川は深さと幅、ある程度の水深をもった、まさに堀の役割を持つ川であった。

さらに両軍の間の方々の要害、道路は堀で切られて両陣を分断していた。

「自今日一條大路両陣之間堀溝、口二丈計、深一丈云々」 『皇年代私記』

一条大路には幅約六メートル、深さ約三メートルもの堀切が施されていたのだ。驚く。
京市街戦で道路を掘り切る戦術は明徳の乱時にも見られる。
又地方の国境の峠が掘で切られていたという話もある。

この他にも両軍は土塁、堀、藪で陣を守り、高楼に見張りを立てるなど防備を堅めていた。
想像以上に京は立体的な戦場となっていたようだ。

敵陣内に物資を確保しに出向く人夫達もいたが、見つかって殺される者も多かった。
両軍の間は河川、堀、通行止め、陣地により隔てられ、初期のような奇襲、突撃戦術も取りにくくなり 戦況は膠着状態にあった。
このような状況では大手を振って物見遊山に出掛けることなどは殆ど出来ない。和睦の橋が架けられたことは「大慶」「珍重」な出来事であったのだ。

肝心の橋の場所ははっきりしない。
山名邸、細川邸、誓願寺、北野天満宮といった語句から、橋は現在の今出川通りから上御霊前通りの間、山名邸から細川邸近隣の堀川にかけられたものと考えられる。しかも互いの使者が馬と従者を連れて渡れる程の造りであった。
こうして東西両軍の戦闘が停止された。

ただこの和睦は完全な戦闘終結では無く、京での戦闘はまだ数年続くことになる。
和睦が成ったとはいえ諸大名達は陣を引く気配も無く、その動向はいまだ定まらなかった。
和睦に反対した者達もいた。
赤松政則もその一人。

「赤松次郎等用心以他云々、不得其意事也」 『大乗院寺社雑事記』

「赤松不同心云々」 『尋尊大僧正記』

政則と政豊は領国に帰った後、更に激しい戦いを続けていく・・・

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