2017年3月7日火曜日

文化系政則 前


赤松一族の歴史を語る中のハイライトの一つが赤松政則期。
嘉吉の滅亡から赤松再興、応仁、文明の乱、山名政豊との戦いなど波乱に満ちた彼の生涯は 大変魅力的で面白い。軍旅に身を置く期間が長かった政則と戦は切り離せない。
則祐、満祐、義村といった歴代赤松当主については和歌など文化的な面が取り上げられる機会も目立つ。はたして政則にそうした文化的な側面がどれ程あったのか。 今回の主役は赤松政則。野蛮な話は抜きにして、文化的な政則の活動をみていきたい。

刀匠として
政則が自ら作刀したことは有名。
政則は備前長船の刀工勝光、宗光兄弟の指導を受けて作刀したという。
現在14口作刀したことが知られ、9口が現存している。

延徳元年(1489)に作られた刀銘
銘 為神山駿河入道周賢   
   
兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十一月六日

銘 為小倉小四朗源則純
   兵部少輔源朝臣政則作
     
延徳元年十一月十五日
銘 為廣峯九朗次郎源純長
   兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十二月十一日

これらの刀剣は政則が美作に滞在していた時に製作された。
この刀を与えられた廣峰純長、小倉則純は政則に付き従った被官達。政則は自作の刀剣を家臣達に恩賞として与えていた。
延徳元年、この年政則は三十五歳。播磨に侵攻した山名軍を破り播磨、備前、美作を奪還した頃のもの。軍も一息つき、美作に滞在していた政則はこうした趣味ともいえる時間を持てるようになっていた。

銘の日付の間隔は九日~一ヶ月程度、これを製作期間とみるかどうか。江戸時代の刀匠が一ヵ月に作刀した本数は四~六本程度といわれるので、製作期間とするのも妥当なところではある。しかし同年である長享三年(1489)に製作された二振りの刀の銘には八月十六日、十七日と連続している。銘を入れるのは研ぎなどの仕上げの後であるので、政則が作刀したものを仕上げに出した後に、銘を入れて完成させたと思われる。
ともかくこの半年程の間に政則は五本もの刀を製作している。波にのっていたのか集中力があるのか。これ以前、文明十四年(1482)にも半年程の間に五本作刀している。

芸能
赤松の芸能といえば「赤松囃子」 播磨白旗城に落ち延びていた六歳の足利義満を赤松家中が松囃子でお慰みしたことから赤松家の恒例行事となったとされる。松囃子とは正月に行われた囃子物を主体とする祝福芸能をいう。鼓や笛を伴奏とする囃子物の芸能で、これに七福神などの仮装行列、作り物を登場させて演出した。
大名が沙汰して行う松囃子を「大名松拍」と呼ぶ。『看聞日記』

赤松の松囃子、赤松囃子は毎年正月十三日に行われるのが恒例であった。
正長二年、永享元年、永享二年、四年といった正月十三日に赤松囃子が行われた記録がある。
永享二年(1430)の赤松囃子は特に派手な催しであったようで
「風流超過去年、驚目了」
「其後福禄寿如去年、惣テ物数三十一色云々」 『満済准后日記』
芸能、演出などのことを「風流」と称した。 この年は福禄寿など三十一種類もの出し物が登場したという。
こうした大名による松囃子は赤松家だけでなく、一色、山名、京極といった諸大名も行っている。松囃子が開催される際は囃子物の他に能や狂言も併せて行われており、それがやがて武家による 猿楽を盛んにさせていく。

政則も猿楽を好んだ武将の一人。
『蔭凉軒日禄』『大乗院寺社雑事記』『実隆公記』などによると政則は 屋形や陣所で盛んに猿楽を行っており赤松家中の者達が主に舞を舞ったという。浦上則宗も度々歌舞を披露している。

明応二年(1493)六月二十三日赤松邸での酒宴の席では 赤松左京大夫、別所大蔵少輔、浦上美作守、上原対馬守、 小寺勘解由、後藤藤左衛門尉が舞を舞っている。
家臣達と共に政則自身も演じていたのだ。

政則は
「雖云幼少、尤好音曲」 『蔭凉軒日禄』
とこうした手猿楽や囃子を大変好んだようだ。 政則は宇治猿楽の鼓打ち幸弥七という者を自身に奉公させていたという。

思えば猿楽で将軍殺しをする程の一族である。
文明十三年(1481)正月十三日の将軍御成が延期となり、あらためて二十日に義政夫妻の赤松邸御成があり、大量の礼物が贈られている。十三日は赤松囃子の日であるので、おそらくこの時も義政、富子は政則の松囃子や猿楽でもてなしを受けたものと思われる。
政則は将軍を松囃子、猿楽でもてなし、家臣達もまた松囃子、猿楽で政則をもてなした。
「作州小原陣松拍、今月十七日有之云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年二月十五日条
「正月十六日、自浦作陣所、企松拍、赴大将之陣所、其返報二月十七日有之  書立上之、凡拍物数七十色、能七番、狂言七番云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年三月三日条

美作小原の陣でのこと。
正月十六日に浦上則宗が自身の陣で松囃子を開催し、政則も則宗の陣所を訪れてもてなされている。その返礼として今度は政則の陣で囃子物七十種、能七番、狂言七番という派手な松囃子を開いたのだ。

延徳三年(1491)九月二十日、近江三井の将軍義材の陣で猿楽が行われた。御座敷御相伴衆は畠山尾張守、一色修理太夫、細川兵部少輔、赤松兵部少輔。政則の伴衆は浦上美作守、上原対馬、小寺勘解由、明石與四朗の四名。
この日はまず将軍お気に入りの観世太夫が演じた。この時政則は観世太夫の歌舞に感じ入って五千疋を褒美として与えている。
次に御相伴衆が皆巡に舞いを舞っていった。畠山、一色、細川等も舞ったという。
赤松による舞いは皆が褒めた程であった。『蔭凉軒日禄』

ところで斯波、山名、京極の三家はこの日欠席している。
「不例不参也」 山名…

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