2017年3月10日金曜日

肖像画の話

土佐光茂が描いた足利義晴の肖像画。
 検索をすればすぐに目にする事が出来る便利な時代になったものだが、 この義晴像を始めて見た人は、その異様な雰囲気に一瞬戸惑うかも知れない。
義晴の目は窪み、焦点が合っておらず、髪は痩せ、その顔からは生気が感じられない。
それもそのはずで、この肖像画は義晴が病没する直前に描かれたものであるからだ。
幼い頃から最期に至る迄の義晴と光茂の長い関係を思いながらこの絵を見ると、 やつれ果てた義晴を見た光茂の気持ちまで考えさせられてしまう。
今回は肖像画について。
肖像とはある人の顔、姿をうつしとった絵、写真、彫刻の像、容貌が相似る様をいう。
像主の生存中に描かれたものを寿像、没後に描かれたものを遺像と呼び、 中世の絵師達は像主と対看しながら、あるいは像主の姿を思い出し、 また記憶のあった者から特徴を聞きながら、資料を参考にしながらと様々な方法で肖像画を描いた。
描かれた肖像画は写実、記録として、遺影として、そして礼拝の対象として使用された。
例をあげると、足利家では尊氏を始め歴代将軍の肖像画が遺影として葬儀、周忌の場で使用されている。 
徳川家康、豊臣秀吉、武田信玄像などは神格化された例だが、藤堂高虎もその一人。
江戸時代、藤堂藩では家臣達が高虎の肖像画を家に持っており、正月や高虎命日の毎月五日に礼拝を行っていた。
高虎に限らず、大なり小なり藩祖となった多くの戦国武将達の肖像画が残り、神格化されている。 この辺りは御家の事情も色々ありと話は簡単ではなさそうだが。
博物館や資料館を巡って、憧れの人物の肖像画を見た感激は格別。 これは単に絵画の出来に対してくるものだけではない。

 肖像画は像主の依頼によって描かれた。
依頼を受けた絵師は依頼主の面前で容貌をスケッチして下書を描く。
そして絵師が依頼主にその下書を見せて伺いを立て、満足か否かを判断してもらう。
満足するかどうかは依頼主に懸かっており、何枚か描き直しをして、ようやく合格したという。
肖像画とはいえ、当時はそれ程の写実性は要求されなかった、必ずしも似せるとは限らず、むしろ理想像といったものの方が多い。
肖像画は依頼主の意向に沿うように描かれたものであったからだ。
中世近世肖像画が他の風景画や絵巻などと異なるのは、絵師が自身の作品であるのに構想を練る事が出来ない、自由に出来ない点がある。
依頼主の意に沿った例では、両目を描かれた伊達正宗が代表例であるが、室町時代の例でいえば足利義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)がある。
この像は義輝の十三回忌及び、追善供養の為に作られた遺像で土佐光吉作、依頼主は義輝の妻、養春院とされ、 生前の義晴を描いた下書を元に作られたという。
京都市立芸術大学芸術資料館所蔵の土佐光吉の作品に、生前の足利義輝を描いたと思われる下絵がある。 作者は源弐、後の土佐光吉。
この義輝は武人らしい凛々しい顔と特徴ある剛毛の髭の他に、顔中に斑点が描かれていいる。
疱瘡の跡と見られるが、先の足利義輝像(国立歴史民俗博物館所蔵)にはそれが見られない。養春院は追善供養をするにあたり、理想の義輝像を掲げようとしたのだ。
一方、足利義政は肖像画を飽くまでも似せるよう描かせたとも言われている。
土佐光信が描いた義政の肖像画は衣冠姿、緋扇を持ち、上げ畳に端座しており、清潔感のある落ち着いた 容貌で描かれている。
この元絵は義政の生前に描かれたものと考えられているが、この絵の特徴に周囲の環境が 描かれていることがあげられ、上げ畳に座った義政の背後には水墨山水図の襖が詳細に描かれている。
そして面白いのは義政の前に鏡台が置かれていること。
恐らく義政は鏡に移る自身の姿と光信が描いている肖像画とを見比べて指図していたとも思われる。
余はもそっと鼻は高いとか、扇の持ち方はこの方が良いであろうとか、義政は五月蠅かったのか。光信がやりにくいと閉口している姿を思わず想像してしまう。
話を戻す。
何度も描き直し合格した下絵を紙形(第一紙形)とし、これを更に整えて直した第二紙形を像主に見せる。
これが了承されれば、この紙形をもとにようやく本画の制作に入る事が出来る。
紙形は肖像画のベースとなるべき下絵である。 これが有る事で何枚もの同じ肖像画の制作が可能となり、時代が下っても、また絵師が変わっても同様の肖像画が描けるようになる。 またこうした下書は門人や流派の画技練習の素材にもなった。
紙形を元に、素材が薄い和紙や絹などの場合は透かして写し、それが出来ないものは念紙を使って図柄を転写し、本画の制作に入る。
こうした描き直しの段階で御役御免となった絵師達もいた。
亀泉集証は自身の寿像制作を狩野正信に依頼したが、紙形を何度か描き直させたが気に入らず、土佐行定に依頼相手を 変更している。
それでも意に沿わず、今度は窪田藤兵衛尉に依頼したがやはり気に入らない。
結局、狩野正信に依頼を戻しようやく完成したという。
交替させられた絵師達はいずれも名手とされる腕前。
「狩野法橋持予陋質紙形数枚来、以一ケ愜衆心定心」『蔭涼軒日録』
 狩野正信は紙形を何枚か描き、その数枚の紙形から本画に使用するものを選ぶわけだが、ここでは多数決で本画に使用する紙形が選ばれている。 このように紙形が何枚も描かれた例もあり、肖像画の数以上に紙形があったはずだが、現在まで紙形が残るのは珍しい。

そのような中で有名人の紙形が残っている。
紙形に描かれた人物は三条西実隆。
口髭と顎鬚を生やし、大きな瞳が印象的で穏やかそうな人物に見える。 こちらも検索すれば直ぐに見つけることが出来る。
実隆の功績は余りに大きい、現在に室町の生き生きとした姿が伝わっているのはこの人のおかげとも 言える、おまけにその姿まで残してくれているとは感謝感謝。
実隆も先の亀泉に劣らず、自身の肖像画に対しては厳しく絵師に接している。
「土佐刑部少輔来、北野縁起絵事相談之、又愚拙肖像紙形令写之、十分不似、比興也」『実隆公記』
義政といい実隆といい、光信も苦笑したことと思う。
 絵師も大変だったのだ。

鹿の話

先日少し気になった史料。
 鹿乃あひ火食候之人、又其合火食候人、如此甲乙丙、其外かやうのまハり 
 具以可被注申之由候也、恐々謹言       
       七月九日         持貞(花押)      
      田中殿 
              
石清水文書」。どうやら鹿を食用にするような、何かの質問のような内容だが…今一つ理解出来ない。
 もう少し見てみる。
持貞とは赤松持貞、田中殿とは田中融清のこと。
赤松持貞は赤松庶流。赤松円心の子貞範の孫に当たる。 将軍義持に近習として仕え、室町殿(義持)と社寺の連絡、調整役を担っていた。
持貞といえば容姿の美しさから義持の寵愛を受けた話や 赤松家の騒動の原因となった話がある。田中融清は石清水八幡宮社務、検校。田中系に最盛をもたらしたが、八幡神人等の強訴による騒乱事件が起き解任されている。

 石清水八幡宮の社務職は凶事があると社務の交替を行うとされてきた。
室町時代においては足利将軍の死去も凶事とされた為、将軍の代替わりがあれば社務も替わる仕組みであった。
融清は義満代の社務であり、義持代の社務職は善法寺宋清であったが、 宋清は「神事奉行緩怠」『建内記』であったので解任され、融清が再任されている。
さきの文書の年次は不明であるが、持貞がいることから融清の第二期社務の頃と判る。
 融清は応永十六年(1409)に第一期社務を解任され、十年後の応永二十六年(1419)八月に再任されている。強訴騒動による解任が応永三十一年(1424)六月であるので、文書の時期は応永二十七年(1420)から応永三十年(1423)頃 のものであると考えられる。
 ところで宋清が解任される直前に応永の外寇が起きているが、こうした事件も何か凶事として関係しているのだろうか。
本文で気になったのが「あひ火」。
次の文字に「合火」とある。

「合火」とは?
合火とは喪や穢れなど忌みごとのある家の火を用いること。
関連する言葉に、同じ火を使い合う「同火」、神事、祭事に使用する火と日頃使用する火を分ける「別火」などがある。
忌事や肉食は穢れとされ、火を通じて穢れが他に移るとされた。
当時はそう安易に火を起こす事が出来なかったので、火は火種として使いまわされていたが、合火を介した火を又合火といい これも又忌まれた。
この文書は「鹿乃あひ火」とあるので鹿食の合火、又合火の触穢についてどこまで穢があるのかを 持貞が融清に質問しているものである。
当時獣肉食は穢れのあるものとされ、これを犯したものは神域に近づくことを憚られていたのだ。 

 果たして鹿肉の穢れとはどの程度のものであったのか。
宛ては無いが融清の鹿合火についての融清の見解らしき書状がある。
「鹿[  ]ヶ日、同火之人と又同火、三七ヶ日候、得御意可有御披露候哉」
欠字もあり、これだけでは良く判らない。
もう少し詳しく判らないものかと調べてみると 『続群書類従 神祇部』の中に「燭穢問答」を見つけた。 問答形式で穢れについての見解が書かれているのだが、これがなかなか細かい。

例えば爪を切っての神社参詣は問題が無いが、血が出ているのであれば差し障る。
怪我をしている者は忌む。
「凡神事ニハ血ヲ忌。血ノ出ル間ハ忌ベシ」
血は忌むべきものであった。
人を殺害した場合は切り捨ては当日に限り穢れるが、すえ物であれば三十日。
すえ物というのは試し切りの死体の事。
首を切った刀は三十日間穢れる。
首を刎ねる時、縄を曳く者は罪人が死ぬと同時に縄を放せば穢れない。
家の中で殺すとその家が穢れ、その家に入ったものも穢れる。

 物騒な話が多いが、こうした中に鹿食について書かれた問答があった。

「鹿食の合火事。鹿食人と合日は五十日穢也。合火の人に。又合火三十日穢れ也。三転の憚也。合火せずとも鹿食の人と同家せば、五日を隔て社参すべし。」

殺人をした者より穢れが重い事に獣肉忌の強さを感じる。
それに鹿以外にも獣肉は多種存在するはずだが、大型動物では鹿についての問答しか 見当たらない。
この次の説明を見ると  

「其故は六畜の死穢は五日也。鹿猿狐等は六畜に准ずる也。合家の者に同家は五日の憚りナシ。其者に合火せずば無憚。但六畜の死穢五日にして。甲乙の二転を憚る。若相混ぜば五日を隔べし」とある。

六畜とは馬・牛・羊・犬・豕・鶏の六種の家畜であるが、これに鹿猿狐も準じるという。
天武天皇代の肉食禁止令以降、神道の米の神聖視と仏教思想による殺生罪により 肉食は排除されてきたが、この頃になると六畜は既に問答の対象以前の禁忌であったようだ。
しかし肉食全般が禁忌とされた訳ではない。

「羚羊狼兎狸の合火憚や。答。不及沙汰」

 カモシカや兎、狸といった肉食の合火は穢れにならないという。これは穢の軽重でみると魚食と同じレベルの扱いになる。
鹿が特別扱いされたのは神事における供物であったからでもある。
現在でも鳥獣による農作物被害の内半数近くを鹿猪が占めているが、当時も鹿による被害は深刻であった。
こうした鹿を狩る事は農作物に豊かな実りをもたらす事に繋がった。
現在でも各地の神社で鹿の狩猟を模した神事が行われており、諏訪の鹿食免などは鹿供物の例である。 朝来郡粟鹿神社のように鹿が農耕をもたらしたとして、鹿を祀っている例もある。
そして武士達にとっては狩猟は武力の象徴であった。
覚えきれない程細かに燭穢が定められているが、これを厳密に守ろうとしたのは貴族、武士達である。
さらに神社により禁忌の範囲も異なる。

『諸社禁忌』によると鹿猪を食べた者は百日の穢れ、共食したものは合火二一日、又合火七日の穢れとある。
石清水八幡宮では魚食三日、兎十一日、鳥食十一日、鹿食百日、同火三十日、猪食鹿と同じ、猿食九十日としている。『八幡宮社制』
 室町時代では神社禁忌も他の故実同様、多岐複雑化しており、独自の家伝書等も頻繁に作られている。こうした禁忌は世間一般に認知されたものではなく、正確に実践しようとするのであれば相応の教養が必要であった。
だからこそ持貞も質問している。
 まして中下層の人々にとっては大して関係の無い話であり、肉食も普通に行っていたようだ。
村人たちが猪を山鯨と呼び、魚の仲間として、兎は鴉鷺で鳥の仲間と称して食べていた話もある。
 またジョン・セーリスが『日本渡航記』に慶長年間の日本の食糧事情を記録しているが、「 日本での食べ物は全般には米食であり、次に魚、葉物、豆、大根、根菜。野禽、鴨、雉などの鳥を食べる。 鹿、猪、兎、山羊、牡牛もおり、豚肉や牛肉も売られていた」と記している。

 鹿食について見てきたが、最後に室町将軍の話。
「矢開には一に鹿、二に雀と申す義也、但鹿は公方様にはあげ申さず候なり」『矢開之事』
将軍と鹿食を遠ざける旨が書かれている。かつて貴族達は狩猟を武士に任せて、自らの身辺から遠ざけたが…
将軍は特別な存在であるとされた事例ががこうした所でも見られるのだ。

石の戦


今年は雪が少ない。大人になった今でも冬になると、昔雪玉を投げて遊んだ雪合戦のことを思い出したりする。そして、雪合戦とあわせて思い出すのが、当時、漫画か授業だったかで知った家康の石合戦。今川家の人質であった竹千代が、五月五日に阿部川の河原で行われた石戦を従者と見物に出かけた際、勢の多い組と少ない組が戦うのだが、多い組は数を頼り油断し、少ない組は一生懸命に戦うので少ない組が勝つだろうと当てた話。
現代でも通じる教訓的な話で、『武徳大成記』など家康関連の史料に書かれている。

ここに書かれているような石戦は中世から近世にかけて、庶民の間で端午の節句の日などに行われていた。

石戦は印地打といい、端午の節句の場合は菖蒲打ともいう。
双方に分かれて石を投げ合う行事や争いであり、当然怪我をすることも多かった。
明応五年(1496)五月五日に京都で印地打が流行した時は、死人や手負いの者が大勢出たとあり、(『実隆公記』)応安二年(1369)四月二十一日に行われた賀茂祭では、日暮れ頃、雑人達が一条大路で戦い始めて印地打となり、死者が四五人出たという。付近の状況は「通路流血之条」と表現されている。(『後愚昧記』)
祭りに際しては兵達が警護についたとある。いまでも祭りの日には警官と喧嘩騒ぎがつきものであるが、当時は増して物騒だったようだ。
印地打は石を投げあうだけなので費用などはかからないように思える。しかし史料を見ていると印地の為に家を差し押さえる話や、印地家代と称して金銭を支払わせた例も見られる。(「興福寺官符衆徒衆会引付」)公の行事として行われた印地打は儀式、規模もそれなりのもので、伴い費用も発生するものであった。
踏み込んでいないので詳しくはわからないが、祭りの為に家を差し押さえるのは気の毒な気がする。
行事で行われた石戦でも多数の死傷者が出る。まして実際の戦で石を投げたとなるとその効果は絶大であった。
石はもっとも原始的で身近にある武器であり、古今東西に使用例が見られ、とりあげるとキリがないので中世あたりから少しみてみようと思う。
戦時における投石では武田軍の投石部隊が有名である。
元亀三年(1573)十二月、信玄が三方ヶ原で家康と戦った時のこと。

『信長公記』には
「武田信玄水役之者と名付、二、三百人真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ候」
と先陣に投石兵を投入した記述がある。
推太鼓を打ちながら襲いかかってくる武田軍、これは恐ろしい。


そういえば印地打が描かれている絵などをみると、組の中に太鼓をもっている人の姿がみられる。
打音により人々はさらに高揚して、合戦はより激しくなっていく。これでは死傷者が出るのも当然である。
『太平記』では赤坂城に籠る楠木正成が、迫る幕府軍に対して大木や大石を落として防戦した記述がみられる。また島原の乱では原城に籠った宗徒達が、材木、火を付けたかや、鍋、石などを投げ落して抵抗したという記録がある。(「野尻松斎宛書状」)城を守備する兵達が石を落として敵を防ぐという記述は多くの軍記物にあり、但馬でも竹田城や岩山城などで、大石を落として羽柴軍と戦う話がみられる。(『武功夜話』『但州一覧集』)このあたりになると信頼度に難があるが、実際の山城でもこうした投石用とされる石が見られる事例が多くある。
備後一条山城、美作医王山城、因幡蛇山城、但馬岩井城、近江佐和山城、飛騨三枝城、越後片刈城をはじめ全国各地で見られ、飛礫が戦の常套手段であったことがわかる。飛礫用の石は集石した状態で曲輪などから見つかっており、丸みを帯びた河原石である場合が多い。
岩井城では拳大から20㎝程度の角礫が飛礫として発掘されている。
大きいものは両手持ちでないと運搬出来そうにない程であり、投げるよりむしろ落として戦ったと考えた方が良いかも知れない。殺傷能力は推して知るべし。当時の兵達が飛礫により負傷したことは史料にも見られる。応仁元年(1468)九月、京都今出川であった合戦に関する史料「吉川元経自筆合戦太刀打注文」によると、元経(経基)配下の浅枝上野守、浅枝孫五朗、三宅図書助が飛礫で負傷したとあり、続く十月の鹿苑院口合戦でもまた浅枝上野守、浅枝孫五郎が飛礫により負傷している。 (「吉川文書」)

月で負傷する勇敢な浅枝一族、流石は鬼吉川と呼ばれる将の兵達である。
この史料にある「於鹿苑院口之櫓手負」の記述から、乱初年から戦用の櫓があったことがわかる。
おそらくこの櫓から落とされた石により、湯枝氏は負傷したのだと考えられる。当時の戦の様子を知る記録としても面白い。
天文十八年(1549)石見国安濃郡大田表の合戦で出された軍中状の史料である「吉川経冬軍忠状景写」には、経冬配下の町野掃部助が矢疵を右足に、左足には礫疵を受けたとある。郎従三人の内の一人も左肩に礫疵を受け、残る二人がそれぞれ弓矢で敵を仕留めたという。 (「石見吉川家文書」)当時の戦が弓矢と礫が飛び交う戦場であったことをうかがい知ることが出来る史料。
それにしても掃部助は両足に怪我をする程の率先垂範振りで部下を率いていたのか。なんとも従い甲斐のある上官である。
どうして吉川家にはこうときめく人たちが多いのか。
この他、天文十一年(1542)の出雲赤穴城、永禄六年(1563)の白鹿城、熊野表の合戦などでも飛礫による負傷者が出た記録がある。城を守る手段として投石が安易かつ有効であり、入手も容易であったという理由から多用されたと思われるが、攻城側が投石をしたという話もある。元亀二年(1571)八月、山中鹿介が籠る伯耆の末石城を吉川元春が攻撃した。
八月十四日付の毛利輝元書状写に
「至伯州末石之城、元春其外取懸候、一両日中可為一途之由候間」とある。(『閥閲録』)
毛利の攻撃は凄まじく、寡兵の鹿介は支えきれずに城は僅か数日で落ちる。
二十日には「末石就落去之儀示給候」と元春が語っている。
この戦は『陰徳太平記』をはじめ幾つかの軍記に描かれており、『老翁物語』には「先づ末石へ召懸られ候。
当日より城の廻り、柵を御結せ成され、其間各々罷り居り候。
城の土手たかく候て、此方よりの矢鉄炮しかじか役を仕らざるに付て、俄に西棲を三重仰せ付けられ、それより矢鉄炮の儀は申すに及ばず、礫を打籠め候」

と毛利軍が攻城櫓を置いて、櫓から弓矢鉄砲、礫で攻撃した記述がある。
僅か数日の攻城戦でこうした施設を置けたのか疑問ではあるが、城攻め側も投石を用い得たことがわかる。他の事例でも良いので裏付けが欲しいところ。次は投石でも少し変化球を。『園太暦』によると延文四年(1359)年八月。都で天狗が横行した時の話!!冷泉室町辺では小童が天狗にさらわれる事件が起き、さらに「又以飛礫打所々、武家権勢道誉法師宅打之、以外事云々」とある。当時天狗達は都のあちらこちらで投石をしており、佐々木道誉宅にも打ちこまれたのだという。
梅津辺りでも天狗による投石があり、これに耐えられなくなった僧が引っ越しをしたと書かれている。京都は怖い。
天狗と石といえば天狗礫という怪異があるが…。
最後は石合戦の話に戻る。応永二十七年(1420)七月十五日、相国寺で盆の施餓鬼供養があり、その際に喝食達の間で石合戦が行われた。
しかし、ここでとんでもない事故が発生したのである。
「相国寺施餓鬼之間、喝食数輩以飛礫打合、室町殿御烏帽子ニ飛礫打当、喝食悉被追出云々」 (『看聞日記』)なんと、この様子を見物していた将軍足利義持の頭に石が当たったのだ。とんでもないことだ。幸いにも、喝食達は「出ていけ」と追い出されただけで済んだようだが、もう少し後の将軍だったら命は無かったかも知れない。
歴代足利将軍は波乱に満ちた生涯を送っているが、流石に石が頭に当たった将軍もいないと思う。

フォークでおとしてみた。

2017年3月7日火曜日

文化系政則 後

続き
狩り
政則は武家の嗜みを疎かにしていない。
狩猟、鷹狩、犬追物に関連する史料も幾つか見られる。
「赤松此間数日醍醐水本坊ニ在之、鷹仕之云々、近日宇治橋寺ニ在之鷹用云々」 『大乗院寺社雑事記』
延徳二年(1490)四月二十九日に播磨で政則は狩猟をしている。その際家臣の魚住又四朗の放った矢が 誤って難波新四朗に当たって死なせてしまったという。『蔭凉軒日禄』

そういえば政則が亡くなる前に鷹狩りをしていたという話もある。
「政則御煩ひあり。御慰に御鷹野に御出。坂田のくど寺と御宿にて、彼寺に御逗留候所に、思ひの外御煩取詰候へて寺にて御他界」『赤松記』

次は犬追物。
犬追物といえば宿敵の山名氏も家伝書を残す程の入れ込みようであり、時熈、宗全、教豊、政豊といった 山名歴代も犬追物を好み、山名一党の者も人々の犬を掠奪し、終日犬追物を射た程である。
政則も何度も犬追物を張行している。
明応二年(1489)九月八日に行われた犬追物は小寺、浦上等赤松家の者達が主な参加者となって行われているが、この日は政則も加わっている。検見は上月則武。この家、楽しそうだ。

犬追物は犬馬場と呼ばれる広場で行われる。
犬追物を描いた絵は幾つもあるが、絵の中の犬馬場にあるように犬が逃げまわり、馬が駆ける、矢が飛ぶ、見物の為の桟敷に柵と、犬馬場にはある程度広い場所が必要であった。
広大な敷地を持つ細川邸は馬場の施設もあったようだが、赤松邸には流石にそこまでのものは無い。政則は犬追物を張行するにあたり、安国寺、妙覚寺、本能寺といった寺の敷地を使用している。
犬追物をする寺を転々としているところをみると、寺側も馬場として使用するにあたり 難色を示したのであろう、敷地を借りるのも容易ではなかったと思われる。それに犬射蟇目矢という特殊な矢を使用するとはいえどうしても殺生を伴う。騎射は寺に相応しくない催事であった。

更に政則は播磨でも犬追物を行っていたようで延徳二年に
「当年赤松殿赤松ト言所ニ、山ヲ引ナラシテ犬馬場ニ用意云々」 『蔭凉軒日禄』

平地を利用するのではなく、わざわざ山を造成してまで馬場を用意させている。
政則の犬追物熱も負けてはいない。

狩りで汗を流した後の温泉は格別。
政則は温泉好きであった。
好きな温泉は美作国湯郷温泉。
現在も温泉地として有名。この温泉に政則は度々湯治の為に訪れている。
『蔭凉軒日禄』によると
「去月廿九日赤松公爲湯治作州下國」 長享二年十月四日条
「赤松公作州湯郷湯治了、去十六日被回駕於播之赤松舊宅云々」 延徳二年六月二十三日条

政則は美作、湯郷温泉に滞在している間は垪和氏の屋敷や長興寺などを宿所としている。「長興寺以可替赤松公之宿云々」
この寺は現在もあり湯郷の観光名所の一つ、御越しの際は是非お立ち寄りを。
政則は他に山城の温泉にも赴いている。

故実書絵画
侍所所司を務めた程の政則は武家故実についても関心を持っていた。
政則は飛鳥井雅康から『蹴鞠之書』を贈られている。
当然蹴鞠を嗜んだのだろう。政則の蹴鞠姿を想像する。
また小槻晴富には『矢開記』を所望し、その写しを手に入れたりもしている。

政則は絵も欲しがっていた。
肖像画。
誰の?

なんと足利義尚。
ことの発端は義尚の死去から始まる。
長享三年(1489)三月二十六日足利義尚が死去。翌月の九日に葬儀が行われ、その際狩野正信が描いた義尚の御影が使用されている。足利尊氏の御影も尊氏周忌に使用された記録がある。
その数日後、義尚の母である日野富子が尊氏像を観たいと所望した。
尊氏像は束帯姿である倭歌御絵と甲冑御絵があったが、その後狩野正信が義尚の出陣絵を描くこととなったことから、富子は息子の肖像を尊氏の甲冑御絵にならって描かせようとしたと思われる。母の愛か。
ちなみに義尚も尊氏像に関心があったようで等持寺にあった尊氏像を取り寄せている。
五月に入り義尚出陣之像の下絵が出来たので亀泉集證に見せたところ、同席していた政則が義尚像作成を依頼したのであった。

「狩野大炊助持常徳院殿御出陣之像下絵来」
「約政則公之所請画像之事」
 
 『蔭凉軒日禄』長享三年五月四日条

その後七月になり政則の所望した義尚像が完成した。

「赤松所誂常徳院殿画像、自狩野助方来」
『蔭凉軒日禄』長享三年七月四日条

政則が手に入れた義尚像はどう使用されたのか、その後どうなったのかは不明である。
赤松政則の文化的な面を見て見たが、赤松家が大名として残らなかったのは本当に残念とした言いようがない。これだけの家の歴史や文化が残され伝えられていれば、どれだけ今の歴史に貢献したことか。

文化系政則 前


赤松一族の歴史を語る中のハイライトの一つが赤松政則期。
嘉吉の滅亡から赤松再興、応仁、文明の乱、山名政豊との戦いなど波乱に満ちた彼の生涯は 大変魅力的で面白い。軍旅に身を置く期間が長かった政則と戦は切り離せない。
則祐、満祐、義村といった歴代赤松当主については和歌など文化的な面が取り上げられる機会も目立つ。はたして政則にそうした文化的な側面がどれ程あったのか。 今回の主役は赤松政則。野蛮な話は抜きにして、文化的な政則の活動をみていきたい。

刀匠として
政則が自ら作刀したことは有名。
政則は備前長船の刀工勝光、宗光兄弟の指導を受けて作刀したという。
現在14口作刀したことが知られ、9口が現存している。

延徳元年(1489)に作られた刀銘
銘 為神山駿河入道周賢   
   
兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十一月六日

銘 為小倉小四朗源則純
   兵部少輔源朝臣政則作
     
延徳元年十一月十五日
銘 為廣峯九朗次郎源純長
   兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十二月十一日

これらの刀剣は政則が美作に滞在していた時に製作された。
この刀を与えられた廣峰純長、小倉則純は政則に付き従った被官達。政則は自作の刀剣を家臣達に恩賞として与えていた。
延徳元年、この年政則は三十五歳。播磨に侵攻した山名軍を破り播磨、備前、美作を奪還した頃のもの。軍も一息つき、美作に滞在していた政則はこうした趣味ともいえる時間を持てるようになっていた。

銘の日付の間隔は九日~一ヶ月程度、これを製作期間とみるかどうか。江戸時代の刀匠が一ヵ月に作刀した本数は四~六本程度といわれるので、製作期間とするのも妥当なところではある。しかし同年である長享三年(1489)に製作された二振りの刀の銘には八月十六日、十七日と連続している。銘を入れるのは研ぎなどの仕上げの後であるので、政則が作刀したものを仕上げに出した後に、銘を入れて完成させたと思われる。
ともかくこの半年程の間に政則は五本もの刀を製作している。波にのっていたのか集中力があるのか。これ以前、文明十四年(1482)にも半年程の間に五本作刀している。

芸能
赤松の芸能といえば「赤松囃子」 播磨白旗城に落ち延びていた六歳の足利義満を赤松家中が松囃子でお慰みしたことから赤松家の恒例行事となったとされる。松囃子とは正月に行われた囃子物を主体とする祝福芸能をいう。鼓や笛を伴奏とする囃子物の芸能で、これに七福神などの仮装行列、作り物を登場させて演出した。
大名が沙汰して行う松囃子を「大名松拍」と呼ぶ。『看聞日記』

赤松の松囃子、赤松囃子は毎年正月十三日に行われるのが恒例であった。
正長二年、永享元年、永享二年、四年といった正月十三日に赤松囃子が行われた記録がある。
永享二年(1430)の赤松囃子は特に派手な催しであったようで
「風流超過去年、驚目了」
「其後福禄寿如去年、惣テ物数三十一色云々」 『満済准后日記』
芸能、演出などのことを「風流」と称した。 この年は福禄寿など三十一種類もの出し物が登場したという。
こうした大名による松囃子は赤松家だけでなく、一色、山名、京極といった諸大名も行っている。松囃子が開催される際は囃子物の他に能や狂言も併せて行われており、それがやがて武家による 猿楽を盛んにさせていく。

政則も猿楽を好んだ武将の一人。
『蔭凉軒日禄』『大乗院寺社雑事記』『実隆公記』などによると政則は 屋形や陣所で盛んに猿楽を行っており赤松家中の者達が主に舞を舞ったという。浦上則宗も度々歌舞を披露している。

明応二年(1493)六月二十三日赤松邸での酒宴の席では 赤松左京大夫、別所大蔵少輔、浦上美作守、上原対馬守、 小寺勘解由、後藤藤左衛門尉が舞を舞っている。
家臣達と共に政則自身も演じていたのだ。

政則は
「雖云幼少、尤好音曲」 『蔭凉軒日禄』
とこうした手猿楽や囃子を大変好んだようだ。 政則は宇治猿楽の鼓打ち幸弥七という者を自身に奉公させていたという。

思えば猿楽で将軍殺しをする程の一族である。
文明十三年(1481)正月十三日の将軍御成が延期となり、あらためて二十日に義政夫妻の赤松邸御成があり、大量の礼物が贈られている。十三日は赤松囃子の日であるので、おそらくこの時も義政、富子は政則の松囃子や猿楽でもてなしを受けたものと思われる。
政則は将軍を松囃子、猿楽でもてなし、家臣達もまた松囃子、猿楽で政則をもてなした。
「作州小原陣松拍、今月十七日有之云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年二月十五日条
「正月十六日、自浦作陣所、企松拍、赴大将之陣所、其返報二月十七日有之  書立上之、凡拍物数七十色、能七番、狂言七番云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年三月三日条

美作小原の陣でのこと。
正月十六日に浦上則宗が自身の陣で松囃子を開催し、政則も則宗の陣所を訪れてもてなされている。その返礼として今度は政則の陣で囃子物七十種、能七番、狂言七番という派手な松囃子を開いたのだ。

延徳三年(1491)九月二十日、近江三井の将軍義材の陣で猿楽が行われた。御座敷御相伴衆は畠山尾張守、一色修理太夫、細川兵部少輔、赤松兵部少輔。政則の伴衆は浦上美作守、上原対馬、小寺勘解由、明石與四朗の四名。
この日はまず将軍お気に入りの観世太夫が演じた。この時政則は観世太夫の歌舞に感じ入って五千疋を褒美として与えている。
次に御相伴衆が皆巡に舞いを舞っていった。畠山、一色、細川等も舞ったという。
赤松による舞いは皆が褒めた程であった。『蔭凉軒日禄』

ところで斯波、山名、京極の三家はこの日欠席している。
「不例不参也」 山名…

2017年2月28日火曜日

化身の武将。



第六天魔王 織田信長。
『日本耶蘇会年報』にあるルイス・フロイスの書簡によると、天正元年(1573)武田信玄への書状で信長が自身の事をそう記したのだという。語感と一般的な信長像、いわゆる革新的な、物好き、奇抜な、残酷なといったイメージとあいまって、よく見かける表現である。第六天魔王とは仏教用語であり、諸説あるが欲界の天の高位にあたる第六番目の天を指し、仏道修行の妨げをする存在、いわゆる仏敵、天魔だという。日本においては神道神話にも登場する。天魔の所業という表現は中世でもよく使われており、寺院の破壊や狼藉、放火や殺人といった悪行や、火災などの災害に対して使用されている。比喩として、あるいはその存在を信じてか。戦国武将では上杉謙信が佐竹義重とその家中が謙信に対して疑心を抱いている件について「誠々天魔之執行歟」と表現している例がある。(「上杉文書」)信長は多くの戦をしており、戦を仕掛ける時には相手に非があり、自身こそが正義であるという主張をしているケースが見られるが、そんな信長が実際に天魔を名乗ったのか疑問に思う。上杉謙信といえば我が毘沙門天の化身と語ったという逸話が有名。出典は『名将言行録』であり実際のところは不明であるが、深く毘沙門天を信奉した謙信のイメージに合った素敵な話で気に入っている。
う一人毘沙門天の化身と呼ばれた武将がいる。
その武将は山名宗全。応仁の乱西軍大将、山名氏最盛期の人物である。

山名氏の系図などには「面赤故世人赤入道云」と書かれており、『応仁記』でも赤入道の記述がみられる。宗全が赤ら顔であったという話は巷に流布されていたと思われる。
そんな宗全の事を歌った漢詩がある。

山名金吾鞍馬毘沙門化身鞍馬多門赤面顔利生接物人間現開方便門真實相業属修羅名属山山名宗全は鞍馬の毘沙門天の化身である。鞍馬の多聞天の容貌は赤面であり、その多門天が利益をもたらす為に人間に現れた。方便の門を開いて真実のあり方を示す。その業は修羅の道を歩み、その名は山に属す、即ち山名である。宗全と同時代に生きた一休宗純の『狂雲集』に書かれている歌。この歌を宗全の好評価とみるか、風刺とみるか。一休は宗全より十歳年上、一休に宗全との面識があったのか逸話以外では覚えが無いが、臨済禅を通しての接点があった可能性は高い。宗全は一休から毘沙門天と称されているが、自身も十二天を崇めており、宗全が鷲原寺に納めたという十二天像図には宗全の署名と花押があり、そこに毘沙門天の姿もある。毘沙門天とは無縁という訳では無かった。やがて応仁・文明の乱となり、一休はその有様を、修羅が血気盛んに怒声を振るわせ戦い、負けた時は頭脳が裂けその魂は永く彷徨うであろう。戦死した兵を弔うというような凄まじい表現をしている。
焼け野原と化した京を見て一休は「咸陽一火眼前原」と歌った。
かつて宗全を持ち上げた一休は何を思ったのであろうか。
『狂雲集』には他にも宗全についての漢詩が書かれている。
金吾除夜死山名従此黄泉幾路程太平天子東西穏九五青雲無客星
乱の最中、宗全が死んだ。黄泉路は幾ばくあるか。

東西の戦も止み、天子の世は穏やかになったが、人物はいなくなった。という意であろうか。西軍の山名宗全と対した東軍大将の細川勝元。
宗全が亡くなって程なく勝元も死去するが、
蓮如の法語、言行を伝える『空善記』によると、勝元は臨終の際に家臣の秋庭(元明)を呼んで「われ死すとも、小法師があり。故は愛宕にていのりもうけたる子なり…」「小法師があるほどに家はくるしかるまじきぞ」と言い残したという。
小法師とは九朗政元、半将軍と呼ばれた細川政元のことである。

『空善記』では政元を聖徳太子の化身であるという。「細川大信殿をばみな人申候。聖徳太子の化身と申す。そのゆへは観音とやはた八幡との申子にてあり。」臨終の際に勝元が言い残した言葉には、勝元夫人が愛宕詣でを続け、観音に祈り続けていたある夜、聖徳太子が夫人の枕元に現れて口に飛び込んだのだという。その後夫人は政元を身籠ったとある。
荒唐無稽であるが、蓮如とその外護者である政元との親密振りを物語る話。僧でありながら蓮如は政元を魚食で接待したという程。奇抜な話の多い政元は誕生の際でもその本領を発揮している。
蓮如・教団と政元の接近がその後の戦国時代での悲劇を生む一因であったのかも知れない。政元は本当に火種だ。

猫の武将。



普段は食事の時間以外、ツンと知らん顔をしている我が家の愛猫も、冬の寒さに耐えきれずに人の膝の上に乗りたがる。毛を膨らませて、聞き耳を立てながら丸くなっている姿は何とも可愛らしい。ついそのまま足が痛くなるまで読書などをして、一緒に過ごしたりする。猫が武将になったゲームが人気らしい。戦国時代の人々も猫とともに生活をしていたようで、武将と猫の話も割と多い。
井伊直孝と白猫、鍋島化け猫騒動、甲斐宗運と猫と茶臼剣、最上義光の膳を食べた猫、秀吉の愛猫など。
小田氏治にいたっては肖像画に猫まで一緒に描かれている。猫好きここに極まれり。絵師に描かせた際に一緒にいたのか…
猫は家に棲むという。捨てられても、追い出されても、また家に戻ってきたという話もある。氏治の生涯も似たものがあるような気がする。
戦国時代あたりでは猫は繋がれて飼われるケースが多く、毛利輝元や板倉勝重らが猫を繋ぐことを禁止する触れを出している。
猫は愛玩動物として飼われただけでなく、古代に猫が輸入された理由が鼠害対策であったといわれるように、鼠狩の益獣としても活躍してきた。勝重の禁制により鼠害も減ったのだという。
我が家にいた猫もよく鼠や雀、蝉などを捕まえてきていたのを思い出した。

猫が愛玩や害獣対策以外に利用された例もある。
「ナラ中ネコ、ニワ鳥安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中ヘ方々隠了、タカノエノ用云々」
(『多門院日記』天正五年五月七日条)
信長が奈良中の猫や鶏を徴集しに来るので、人々が取られまいと猫達を僧坊にに隠したというのだ。集める理由は鷹の餌にする為だという。
猫を餌にするなどとやはり信長は天魔だ。猫を護ろうとした奈良の人達もほほえましい。

の餌にされたのは猫や鶏だけではない。

「山名一党多好田猟、踏損田畠、農民又愁傷之、捕人々之犬、終日射犬追物、或殺犬、人食之、鷹養之汚穢不浄充満者歟、更難叶神慮哉、管領被官人堅加制止、不及鷹飼云々、於食犬者、被官人等元来興盛歟、主人不知之謂歟」
(『建内記』嘉吉三年五月二十三日条)

山名の一党が農民達の田畑を荒らし、犬を掠奪して犬追物や鷹の餌にしたという。更に犬は精力が付く為、人も犬を食べたとある。
山名氏の横暴を示す際にも使われる史料でもあるが、掠奪はともかく食犬は珍しくない習慣だった。当時の遺跡から出土した犬の骨には食用にされたとみられる解体痕が見つかった例もある。ルイス・フロイスや貞成親王なども薬として犬肉を食べるということを書いている他、食犬は現代に至るまでその例は多い。

ちなみに山名氏の家伝書『山名犬追物記』には「ノガレ犬」という作法があり、犬追物に使う最初の一匹はわざと矢を外して逃がすのだという。ささやかな情けだが。

最後に。
我が家には「猫神神社守護」と書かれたお札がある。鹿児島の仙厳園にある猫神神社のもので、御祭神は猫神。


神社の由来には、島津義弘が秀吉の朝鮮出兵の際に七匹の猫を連れて行ったとある。猫の瞳孔の開き具合で時を知る為だったという。
猫時計、なんと素敵な。
残念ながら七匹の猫のうち五匹は戦死してしまったが、二匹が無事生還して、時の神様として祀られることとなった。島津軍は猫まで勇ましい。


生還したニ匹の猫の名はヤスとミケ。まさに猫の武将である。