2017年2月28日火曜日

化身の武将。



第六天魔王 織田信長。
『日本耶蘇会年報』にあるルイス・フロイスの書簡によると、天正元年(1573)武田信玄への書状で信長が自身の事をそう記したのだという。語感と一般的な信長像、いわゆる革新的な、物好き、奇抜な、残酷なといったイメージとあいまって、よく見かける表現である。第六天魔王とは仏教用語であり、諸説あるが欲界の天の高位にあたる第六番目の天を指し、仏道修行の妨げをする存在、いわゆる仏敵、天魔だという。日本においては神道神話にも登場する。天魔の所業という表現は中世でもよく使われており、寺院の破壊や狼藉、放火や殺人といった悪行や、火災などの災害に対して使用されている。比喩として、あるいはその存在を信じてか。戦国武将では上杉謙信が佐竹義重とその家中が謙信に対して疑心を抱いている件について「誠々天魔之執行歟」と表現している例がある。(「上杉文書」)信長は多くの戦をしており、戦を仕掛ける時には相手に非があり、自身こそが正義であるという主張をしているケースが見られるが、そんな信長が実際に天魔を名乗ったのか疑問に思う。上杉謙信といえば我が毘沙門天の化身と語ったという逸話が有名。出典は『名将言行録』であり実際のところは不明であるが、深く毘沙門天を信奉した謙信のイメージに合った素敵な話で気に入っている。
う一人毘沙門天の化身と呼ばれた武将がいる。
その武将は山名宗全。応仁の乱西軍大将、山名氏最盛期の人物である。

山名氏の系図などには「面赤故世人赤入道云」と書かれており、『応仁記』でも赤入道の記述がみられる。宗全が赤ら顔であったという話は巷に流布されていたと思われる。
そんな宗全の事を歌った漢詩がある。

山名金吾鞍馬毘沙門化身鞍馬多門赤面顔利生接物人間現開方便門真實相業属修羅名属山山名宗全は鞍馬の毘沙門天の化身である。鞍馬の多聞天の容貌は赤面であり、その多門天が利益をもたらす為に人間に現れた。方便の門を開いて真実のあり方を示す。その業は修羅の道を歩み、その名は山に属す、即ち山名である。宗全と同時代に生きた一休宗純の『狂雲集』に書かれている歌。この歌を宗全の好評価とみるか、風刺とみるか。一休は宗全より十歳年上、一休に宗全との面識があったのか逸話以外では覚えが無いが、臨済禅を通しての接点があった可能性は高い。宗全は一休から毘沙門天と称されているが、自身も十二天を崇めており、宗全が鷲原寺に納めたという十二天像図には宗全の署名と花押があり、そこに毘沙門天の姿もある。毘沙門天とは無縁という訳では無かった。やがて応仁・文明の乱となり、一休はその有様を、修羅が血気盛んに怒声を振るわせ戦い、負けた時は頭脳が裂けその魂は永く彷徨うであろう。戦死した兵を弔うというような凄まじい表現をしている。
焼け野原と化した京を見て一休は「咸陽一火眼前原」と歌った。
かつて宗全を持ち上げた一休は何を思ったのであろうか。
『狂雲集』には他にも宗全についての漢詩が書かれている。
金吾除夜死山名従此黄泉幾路程太平天子東西穏九五青雲無客星
乱の最中、宗全が死んだ。黄泉路は幾ばくあるか。

東西の戦も止み、天子の世は穏やかになったが、人物はいなくなった。という意であろうか。西軍の山名宗全と対した東軍大将の細川勝元。
宗全が亡くなって程なく勝元も死去するが、
蓮如の法語、言行を伝える『空善記』によると、勝元は臨終の際に家臣の秋庭(元明)を呼んで「われ死すとも、小法師があり。故は愛宕にていのりもうけたる子なり…」「小法師があるほどに家はくるしかるまじきぞ」と言い残したという。
小法師とは九朗政元、半将軍と呼ばれた細川政元のことである。

『空善記』では政元を聖徳太子の化身であるという。「細川大信殿をばみな人申候。聖徳太子の化身と申す。そのゆへは観音とやはた八幡との申子にてあり。」臨終の際に勝元が言い残した言葉には、勝元夫人が愛宕詣でを続け、観音に祈り続けていたある夜、聖徳太子が夫人の枕元に現れて口に飛び込んだのだという。その後夫人は政元を身籠ったとある。
荒唐無稽であるが、蓮如とその外護者である政元との親密振りを物語る話。僧でありながら蓮如は政元を魚食で接待したという程。奇抜な話の多い政元は誕生の際でもその本領を発揮している。
蓮如・教団と政元の接近がその後の戦国時代での悲劇を生む一因であったのかも知れない。政元は本当に火種だ。

猫の武将。



普段は食事の時間以外、ツンと知らん顔をしている我が家の愛猫も、冬の寒さに耐えきれずに人の膝の上に乗りたがる。毛を膨らませて、聞き耳を立てながら丸くなっている姿は何とも可愛らしい。ついそのまま足が痛くなるまで読書などをして、一緒に過ごしたりする。猫が武将になったゲームが人気らしい。戦国時代の人々も猫とともに生活をしていたようで、武将と猫の話も割と多い。
井伊直孝と白猫、鍋島化け猫騒動、甲斐宗運と猫と茶臼剣、最上義光の膳を食べた猫、秀吉の愛猫など。
小田氏治にいたっては肖像画に猫まで一緒に描かれている。猫好きここに極まれり。絵師に描かせた際に一緒にいたのか…
猫は家に棲むという。捨てられても、追い出されても、また家に戻ってきたという話もある。氏治の生涯も似たものがあるような気がする。
戦国時代あたりでは猫は繋がれて飼われるケースが多く、毛利輝元や板倉勝重らが猫を繋ぐことを禁止する触れを出している。
猫は愛玩動物として飼われただけでなく、古代に猫が輸入された理由が鼠害対策であったといわれるように、鼠狩の益獣としても活躍してきた。勝重の禁制により鼠害も減ったのだという。
我が家にいた猫もよく鼠や雀、蝉などを捕まえてきていたのを思い出した。

猫が愛玩や害獣対策以外に利用された例もある。
「ナラ中ネコ、ニワ鳥安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中ヘ方々隠了、タカノエノ用云々」
(『多門院日記』天正五年五月七日条)
信長が奈良中の猫や鶏を徴集しに来るので、人々が取られまいと猫達を僧坊にに隠したというのだ。集める理由は鷹の餌にする為だという。
猫を餌にするなどとやはり信長は天魔だ。猫を護ろうとした奈良の人達もほほえましい。

の餌にされたのは猫や鶏だけではない。

「山名一党多好田猟、踏損田畠、農民又愁傷之、捕人々之犬、終日射犬追物、或殺犬、人食之、鷹養之汚穢不浄充満者歟、更難叶神慮哉、管領被官人堅加制止、不及鷹飼云々、於食犬者、被官人等元来興盛歟、主人不知之謂歟」
(『建内記』嘉吉三年五月二十三日条)

山名の一党が農民達の田畑を荒らし、犬を掠奪して犬追物や鷹の餌にしたという。更に犬は精力が付く為、人も犬を食べたとある。
山名氏の横暴を示す際にも使われる史料でもあるが、掠奪はともかく食犬は珍しくない習慣だった。当時の遺跡から出土した犬の骨には食用にされたとみられる解体痕が見つかった例もある。ルイス・フロイスや貞成親王なども薬として犬肉を食べるということを書いている他、食犬は現代に至るまでその例は多い。

ちなみに山名氏の家伝書『山名犬追物記』には「ノガレ犬」という作法があり、犬追物に使う最初の一匹はわざと矢を外して逃がすのだという。ささやかな情けだが。

最後に。
我が家には「猫神神社守護」と書かれたお札がある。鹿児島の仙厳園にある猫神神社のもので、御祭神は猫神。


神社の由来には、島津義弘が秀吉の朝鮮出兵の際に七匹の猫を連れて行ったとある。猫の瞳孔の開き具合で時を知る為だったという。
猫時計、なんと素敵な。
残念ながら七匹の猫のうち五匹は戦死してしまったが、二匹が無事生還して、時の神様として祀られることとなった。島津軍は猫まで勇ましい。


生還したニ匹の猫の名はヤスとミケ。まさに猫の武将である。

2017年2月24日金曜日

大将は後方に。

武士。つわもの、もののふ、さむらいといった言葉で表現されることもある。
「つわもの」や「もの」は武器の意味でもあり、これを扱っていた者達に対してもそう呼ばれるようになったのだという。今回はそんな武士の大事な仕事である合戦の話。合戦は兵と武器でもって相手の戦力を削ぎ、戦意を失わせて勝利を得る。合戦で勝利する要素は兵の多寡、立地、気象条件、運用と多岐にわたるが、もっとも効率的に勝利を得る方法が敵の大将を討つことであった。将棋でもチェスでも王を詰めれば勝ち。今川義元や陶晴賢等がその実例である。強大な勢力を誇った織田軍団ですら信長を失った後は機能不全に陥り、そのお陰で追い詰められていた各地の戦国大名達もその命運を保っている。合戦においては大将を守る事が最重要であった為、大将は城や陣の奥深い場所で、近習達に囲まれてその身の安全を確保していた。弓鉄砲礫が飛び交い、槍で突かれ、武装した兵や馬に衝かれる最前線からは一定の距離、防御施設による隔たりがあった。
朝倉宗滴は「合戦ノ時武者奉行タル仁諸勢ノ跡ニ居タルハ悪候、先立タルカ本ニテ候」と合戦における武者奉行の心構えを説いている。 (『朝倉宗滴話記』)
宗滴曰く、武者奉行が最前線にいなければ、兵達が手柄を見せる為に大将のいる後方まで下がってしまい手薄になるので良くない。敵に手薄になった隙をつかれると負けてしまう。更にここで大将が退却せずに、踏ん張れば討ち死する危険すらある。
合戦の際、大将が実際の戦闘が行われている場所から距離を置いていたことが判る。戦場の体験から事例や心構えを語る宗滴の話はリアリティがあり面白い。
地侍や国人クラスの武将達は大規模な兵を持つことが出来ず、あるいは大名の指揮下にあったので最前線で自身が戦う事も多く、負傷、討ち死することも多かったが、守護、戦国大名ともなると最前線に出るのも稀で、負け戦であろうとも余程のことがない限り討ち死などはしなかった。討ち死した大名といえば今川義元、龍造寺隆信、相良義陽、斎藤道三あたりが思い浮かぶが、大勢は出てこない…
しかし大名自身が自らを危険に晒す戦闘行為をしたという記録がある。
有名なところでは上杉謙信。
永禄四年(1561)に武田信玄との間で行われた川中島合戦に関しての近衛前久の謙信への書状。

「今度於信州表、対晴信遂一戦、被得大利、八千余被討捕候事、珎重之大慶候、雖不珎義候、自身被及太刀打段、無比類次第、天下之名誉候…」。(『歴代古案』)

謙信が自ら太刀打ちに及んだことが記されており、
信玄との一騎打ちの根拠としても出される史料。どのように前久に伝わったのかはわからないが、信玄との合戦における勝利の報とあわせて謙信の太刀打が絶賛されている。謙信にとっては普通の事だというのが恐ろしい。
明応二年(1493)二月、足利義材は畠山義豊を討つ為に河内に出陣し、畠山政長、斯波、武田、一色、赤松といった諸大名がこれに従った。この戦の最中の四月に明応の政変が起き、細川政元についた赤松政則は逆に義材、政長と対することとなった。翌月の閏四月二十二日に行われた堺合戦で政則は畠山政長方の軍勢と戦っている。
「昨日廿二卯刻、根来衆為始紀河両国之勢一万計乎堺隣郷向村幷近辺之山々陣取候、左京兆自身打出、数刻及合戦候、同申刻敵悉切散、大得勝利候…」 (『蔭凉軒日録』閏四月二十四日条「上月則武書状」)

政則が白兵戦を挑んだとまでは言い切れないが「自身打出」という表現をしてまで、この合戦の模様を記している点が気になる。他の大名にはこのような表現がされていないところを見ると、政則のとった行動は目立ったものであったのかも知れない。政則はこの三月に政元の姉(又は妹)の洞松院を娶っている。更にこの頃、政元に所領安堵を認めてもらうよう家臣を通して申し出ている。

政則はこの合戦で武功をあげて政元の信頼を得る為にも、自身を危険に晒してまで、その姿勢を見せなければならなかったのだ。

政則は刀匠として自身が作刀した刀剣を家臣等にも与えていることが知られているが、斯波氏に仕えた尾張下四郡守護代織田敏定にも自作の刀剣を贈っている。
その銘には
表「為織田大和守藤原敏定
  兵部少輔源朝臣政則作」
裏「長享三年八月十六日」
とある。
赤松政則と織田敏定は朝倉氏を巡る交渉や近江、河内攻めなどを通じて誼を通じており、特に赤松被官である浦上則宗と敏定は頻繁に接触している。そうした関係から刀を贈られたと思われるが、この敏定の肖像画は細身で上品に描かれている政則とは対照的に、ふっくらとした野性的な雰囲気すらある武人として描かれている。印象的なのが右目を瞑った姿であること。

「某歳、軍于州之清州、為賊所射、一目失之、不抜其箭、以攻以戦、賊乞降而退」(『補庵京華外集上』「織田敏定寿像讃」)

この賛は文明十年に織田敏広が清州に拠る敏定を攻めた際のことが書かれているとされる。合戦の最中、敏広勢から射られた矢が敏定の目に刺さったが、敏定は抜かずにそのまま戦い続けたのだという。
なんとも壮絶な守護代クラスの最前線の戦いである。

赤松政則と宿敵関係にあった山名宗全。その父である時熈も明徳の乱の際に勇猛果敢に戦っている。
『明徳記』の京都市中、赤松勢との戦闘を終えた氏清勢が休息をしているところに僅かな馬廻りで突撃をかける時熈の場面。
「時熈よき所よと見てんげれば、二条の大路へ打出て、奥州の兵大勢にて控えたる真中へ懸入て、一文字に裏へわてとをり、取て返して一揉々て、又十文字にかけ破て、二条へさとかけいでたれば、五十三騎の兵も主従九騎に成にけり」
氏清勢に突撃を繰り返した時熈は従う兵を次々と失い、自身も追い込まれ絶体絶命の危機に陥ったが、垣屋と滑良が救援に入り、彼らの討ち死と引き換えに虎口の死を逃れることが出来たという。
軍記物ではあるが『明徳記』は乱の翌年または翌々年に書かれたとされる史料でもある。細かい描写は脚色だろうが、時熈と氏清ともに果ててもおかしくない激闘であった話が伝わったからこそ、書かれた場面であると思う。山名氏も一族滅亡の瀬戸際を経験している。この内野合戦で守護大名氏清は討ち死しているが、赤松則祐の子である満則、持則も氏清の軍勢と戦って討ち死している。
重責を担っている大将は迂闊に身を危険に晒してはならない。

2017年2月23日木曜日

城主の分類

 先日読んだ本に城主の名称に関する記事があり、なかなか興味深かったのでメモ代わりに書いておく。

・城主…領国支配権を本領に対し安堵された在城者
・城代…領域支配権を与えられて在番する者
・城番…純軍事的に在番する者
 
この分類は馬部隆宏氏「城郭支配政策からみた戦国期毛利氏の権力構造」(『新視点中世城郭論集』)による。
 また「城督」とう名称が毛利氏や大友氏の文書に幾つかあるが、これは城代に相当するという。


成る程、勉強になった。
 軍記物などでは「定番」という言葉を使って城主を置く表現があったな…「城督」という言葉は何だか三国志的な響きがありますね。この本は現在販売されていないようで、近所の図書館にも置いていない…田舎は不便ですねえ。

2017年2月22日水曜日

赤松義雅の晴れ舞台


今回は籤により選ばれた将軍として有名な、室町幕府六代将軍足利義教に関する話。

応永三十五年(1428)正月十八日足利義持死去。
この日、前夜に八幡宮で引かれた籤の結果が明かされ、義持の弟である青蓮院義円が時期将軍に選ばれた。後の足利義教である。

翌日から将軍になるべく元服の手続きが始まる。
元服の儀といえば数日程度をイメージするが、義教の場合は選ばれて後、実に二年半もの年月をかけて一連の儀式が執り行われている。
十歳で青蓮院門跡に入った義円はこの時三十五歳、異例の高齢での将軍選出である。
義円が将軍になる為には環俗、任官、元服と多くの行事をこなす必要があった。
応永三十五年三月十二日。還俗、従五位左馬頭叙任、名を義宣と改める。
四月十一日、判始、乗馬始。
四月十四日、御沙汰始。御的始。従四位昇進。
更に元服迄の間に正長改元、後花園天皇擁立が行われている。
こうして正長二年(1429)三月九日、元服が行われた。義宣三十六歳。
面白いのは元服に至っても、義宣が烏帽子懸を用いて烏帽子を固定させなければならなかったという話。法体であった時から髪が生え揃うまでの時間が足りなかったという。
義教の将軍就任については『普廣院殿御元服記』に詳しい。
義宣に冠を着ける儀は管領畠山満家の一門より行われた。

加冠、畠山持国。
理髪、畠山義慶。
打乱役、畠山持幸。
泔坯、畠山持永。
時刻は亥刻、午後十時。元服の日時は陰陽師の阿陪有富が選定した。
更に護持僧による加持祈祷が行われている。
翌日からは大名、諸社からの祝儀が続き、その後も次々と将軍元服に関する儀式がこなされていく。

三月十五日、征夷大将軍宣下、参議・左中将昇進。
義宣は名を義教と改めた。
「名字義教ト改名、元義宣世志のふと被読成、不快之間被改云々」  (『看聞日記』正長二年三月十五日条)
三月二十九日、権大納言に昇進。
四月十五日、御判始。
八月四日、右近衛大将に昇進。
八月十七日、八幡社参始。

そして永享二年(1430)七月二十五日。
一連の儀式の締めくくりとも言うべき「大将御拝賀」が行われた。
この大将御拝賀は将軍をはじめとして、公卿、殿上人、大名、侍他供奉人等大勢が行列して室町殿から都の通りを経て参内するという大きな行事であった。

この時の様子は『普廣院殿御元服記』、『普廣院殿大将御拝賀雑事』、『満済准后記』などに詳しく書かれている。
この日は良く晴れた日であり、将軍は申の刻(午後三時頃)、公家、大名、官人等が蹲踞する中、出発した。こうした日取りは陰陽師が決めるものであった。
満済は行列進発の前に加持が行われたことも記している。義教は束帯姿で剣を帯びていた。
行列の先頭は侍所が務める。
この時の侍所は赤松満祐である。
義教の代になり満祐が侍所に任命されたわけであるが、大将御拝賀での重役を務めるには問題があった。
「侍所。帯甲冑、于時赤松左京大夫入道性具。依爲法躰斟酌。舎弟伊豫守義雅勤其役」 (『普廣院殿御元服記』)
満祐は出家して法体であり御拝賀の儀に支障がある為、弟である赤松義雅が代役を務めることとなったのだ。
郎従三十騎を連れた義雅は、浅黄糸鎧、金刀を帯び、重藤弓を握り、大中黒の矢を背負い、黒毛の馬に乗り、従者らが兜、床几等を持ち付き添った。
兵は皆、色毛鎧を着、兜や敷皮などは各々の従者が持ちこれに随った。
僕達は紺の直垂に銀薄で文を押したものを身に付けていた。
次に小侍所。狩衣姿の畠山持永が郎従十騎を連れて続く。

満済は路地に用意された桟敷で大将御拝賀の行列を見物したと書いている。
「悉以奇麗驚目了」であったという。
行列を見物した都の人々も、凛々しく、絢爛な武者達の姿を見てため息をついたことと思う。

 更に笠持十人、居飼四人、御厩舎人二行四人、一員三人が続き、殿上前駈三十四騎、地下前駈十騎、御随身番長、番頭八人、帯刀帯二十二人と続いて将軍の御車となる。
御車には御簾役、御沓役、御車副二名、御牛飼一名、副御牛飼四人、御雨皮持仕丁二人、御随身二人、御傘持、下﨟御随身五人、雑色六人、等が付いていた。

こうした詳細は安全上の事情から厳しく秘密にするべきものであるが、故実としてこれを記し残したとあるのも面白い。

後衛には侍十騎、官人五人、扈従公卿二十三人と供奉人が続いた。

そして後衛の目玉ともいうべき一騎打。大名一騎打といわれる名誉ある役である。
この時の一騎打には畠山持国、佐々木持光、富樫持春、土岐持益、斯波義淳がなっている。狩衣姿であった。

その後に義淳の郎等十騎、総奉行四人、更に童、調度懸、雑食四人、如木二人、中間四人、笠持、床木持が続いた。
大将御拝賀とはこれ程の行列を組むものであったのだ。

御拝賀の行列は萬里小路を北、二条を西、油小路を北、中御門に至って東、室町を北、近衛を東、東洞院を北と経て左衛門而陣に至った。
辻辻は大名により警護され、事前に路の清掃も行われたとある。

『満済准后記』には御拝賀の事前準備や根回しについての記事もある。
注目すべきは「大名一騎打」についての記事が幾度か出て来ること。

一色義貫が将軍御拝賀において、大名一騎打の最前の役が欲しいと申し出ていたことが書かれている。
義貫の祖父である一色詮範が義満の拝賀の際に大名一騎打最前を務めたので、今回もこの例に習って一色を一騎打最前にして欲しいというのだ。
義貫は山名時煕、赤松満政などにも働きかけていたようだが、一騎打最前は管領がつくという決まりであるので、今回の一騎打は最前が畠山、次が一色になるとして、義貫の申し出は通らなかった。
結局、今回の大名一騎打に一色の名前は無い。義貫は不服として御拝賀に参加していない。
「次座ニ罷成條不便儀也。且可爲家恥辱云々」 (『満済准后記』永享二年七月二十日条)

畠山の次座に甘んじることは義貫には我慢ならなかったのだ。
この御拝賀の直後、義貫は義教より不興を買っている。
大名一騎打はこれ程に大名にとって大変重要な役であった。

そして義雅はこのような大イベントの先頭を飾る栄誉の機会を得たのであった。
まさに義雅にとって人生の晴れ舞台である。

赤松義雅は後に義教から所領没収、嘉吉の乱で満祐とともに最期を遂げる幸薄い武将である。しかし彼が残した千代丸の子、政則により赤松は再興されていく。

武将の落とし物

昭和に法隆寺が大修理された際、心柱から一本の扇が発見された。
なんとこの扇は秀吉の物だという。秀吉が秀長を訪ねた時に法隆寺に立ち寄り、そこで柱の穴を覗き込んだ際にうっかり落としたものではないかと。
先日たまたま読んだ記事で真偽の程は定かではないが、なかなか興味を引く話ではある。
という訳で今回は落とし物。
秀吉の扇といえば亀井玆矩の話。
中国大返しの時、姫路での軍議で玆矩は秀吉から恩賞希望地を聞かれた。しかし望んでいた出雲は毛利と講和した為に絶望的である。秀吉は出雲以外の地を選べと言う。
ここでの玆矩の言葉がかっこいい。

「海内の地に於ける出雲を除く外、望む所なし。琉球国を賜はらば、伐ちて之を取らん」  (『道月餘影』)
これを聞いた秀吉は大いに壮なりと感じ入り、腰に挿していた金団扇に「六月八日 秀吉」「羽柴筑前守」「亀井琉球守殿」と著してこの扇を玆矩に与えた。
以降、玆矩は琉球守と称した。

玆矩を代表する有名な話。実際に「亀井流球守とのへ」と記された秀吉朱印状も残っている。

そんな有難い金団扇であったが、朝鮮役で李舜臣軍と海戦した際に遺失して朝鮮側に渡ってしまった。遠い戦場にまで持って行ったのか。

朝鮮側の史料『李忠武全書』にこの団扇の事が記されている。

「倭将船捜得金団扇一柄、送于臣處、而扇一面、中央書曰、六月八日秀吉著名、右邊書羽柴筑前守五字、左邊書亀井流求守殿六字、蔵于漆匣…」
先の姫路軍議の文言と一致している。国際的な落し物になってしまった。
ふと思ったが仮に秀吉直筆だとすれば、果たして秀吉がすらすらと漢字を書けたのか、秀吉直筆の文書は平仮名が多かった気がする。しかし書かせれば済む話ではある…真相や如何。


続いて竹中重利。

この人は竹中半兵衛(重治)の従兄弟にあたり、半兵衛の領地から知行を受けていたが、後に秀吉に仕え、関ヶ原合戦では黒田如水に誘われて東軍に与した功で豊後府内二万石を賜っている。
府内城下町整備などの内政に力を注ぐ一方、馬、鑓、鉄砲、剣術などの武技を家臣に奨励するなど武芸にも強い関心を持った人物であった。
重利は黒田如水親子との交誼も深い。

ある日、如水の饗応を受けた重利はそこで何本かある刀剣から好きなものを選べと言われた。重利は短刀を選んだ。
如水は何本も刀剣があるのに本当にそれで良いのかと不思議がったが、重利がそれで良いならとこの短刀を贈った。
後日、重利が京都へ鑑定に出してみると、その刀はなんと正宗であった。重利は大いに喜んだという。  (『豊府聞書』)

しかし事故が起きた!!
重利が西国に下向した時にこの正宗をうっかり海に落としてしまったのだ。
漁夫に探らせて正宗は無事取り上げられたという、重利も胸をなでおろしたことであろう。

『享保名物帳』によるとこの短刀は長八寸七分、不知代。
表忠に「横雲正宗」裏に光徳判と赤銘があったとされる。
本阿弥光徳は天正、慶長頃の目利。

この短刀は新古今和歌集三十七首、藤原家隆の
「霞たつすゑの松原ほのぼのと波にはなるゝ横雲の空」
という歌にちなんで「横雲正宗」と名付けられたという。 (『詳註刀剣名物帳』)


海に刀剣を落とした武将には大物もいる。

その名は足利尊氏。
建武政権から追討され、戦に敗れた尊氏が九州から再起を図ろうとした時の話。
「尊氏将軍九州進発之時、見乗御舟時、篠造之御太刀自御舟被取落、沈海底、曽我入海取出之、依其忠功、如此名乗…」  (『蔭凉軒日録』長享二年三月十六日条)

意気揚々と進発しようとした矢先、尊氏はうっかり篠造の太刀を海に沈めてしまったのだ。縁起でもない出来事だ。しかし部下達の不安は尊氏以上だったと思う。
この大将大丈夫かいなと。


この太刀は尊氏に従っていた曽我左衛門尉(師助)により海底から取り出され事なきを得た。
正宗、義経の弓と瀬戸内では物がよく落ちる。

この篠造の太刀は『享保名物帳』に「二ツ銘則宗」の名で紹介されている。
長二尺六寸八分、不知代。

尊氏以来、足利将軍家に代々伝わり、後に義昭より秀吉に進ぜられて愛宕山に奉納された。
『明徳記』の中でも「篠作と云御太刀をぞ佩かせ給たりける」と山名氏清を迎え討つ足利義満が篠造之太刀を佩いていたことが書かれている。
永禄の変など波乱続きの将軍家でよく残ったものと思う、その頃には既に宝物と化していて使用されず無事だったのか。将軍家の盛衰を見てきたまさに生き証人ともいうべき太刀である。手放した義昭はさぞ無念であっただろう。


最後は伊達政宗の落とし物。

「政宗公御落馬被成、御足ヲ被打折候、御養生候而御足ハ付候ヘトモ、御痛ニテ御出馬抔可被成躰ニ無之候故…」  (『伊達成實記』)
『伊達氏治家記録』によると天正十七年(1589)二月二十六日夜に米沢城下の谷地で、政宗が乗っていた馬が急に驚いた為に飛び降りたが、その際に足を折ったという。
政宗は随分痛がったようだ。


落とし物は落とし物でもこれは自身を落とすという話。

そういえば細川忠興も初めて甲冑を付けた際に腰掛けていた具足櫃が抜け落ちて、仰向けに転んでしまったという逸話があったが、やはり彼等はエピソードまで只者ではない